対馬全カタログ「村落」
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2023年1月11日
厳原町
内山
【うちやま】
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対馬唯一の盆地の村。
穏やかで雄大な山容が
“対馬らしくない”と人気
ここにしかない景色
 内山は、周囲を500~600mの山々に囲まれた、海抜125m前後の盆地の村だ。厳原市街からは西南に約10km、トンネルのおかげで車なら15分ほど。村の西側を流れる瀬川は6キロほどで河口の瀬地区に至り、海とつながる。
 周辺に古代の遺跡はなく、最古の記録が1262年、元寇・文永の役の12年前のもので、土地売却の記録だいう。(内山家文書)
 この村の最大の魅力は、写真でわかるように、「ここ、対馬?」と疑いたくなるような、ゆったりとした景色だ。西南西方向が抜けており、そこから海がのぞくのもいい。
 内山峠からの眺めが素晴らしく、この景色を見るために旧道を走る人は多い。風に吹かれながら、ついでに、海がかすんでいなければだが、壱岐を眺めることもできる。
夕日を浴びる内山盆地(内山峠から)
夏の午後は気温が低く、近くに「鮎戻し」がある
 夏は午後から霧が山から降りてくるので日照時間が少なく、気温も低下するそうだ。水が低温なので農作物の作付けが他よりも早いという。
 さらに近くには、巨大な花崗岩の一枚岩でできている渓谷、通称「鮎戻し」がある。ここも対馬らしくない景観だ。水流の浸食によって花崗岩が削られ、ウォータースライダーのような狭い流路や、大小さまざまなポットホール、滝が生まれ、周囲の緑や吊り橋と相まって、ここならではの渓谷美を構成。夏休みには観光客や地元の家族連れで賑わう。
内山盆地の真ん中を走る県道192号線
対馬では唯一の景色「鮎戻し」と吊り橋
道路整備が大きく内山を変えつつある
 対馬は下島と上島の山容が大きく異なる。上島はおにぎりをスキ間なく並べたような山容だが、下島は山々が山脈を構成し、山が大きい。その分、山を越えるには相当のエネルギーを要する。
 厳原市街から内山に行こうとすると、かつては歩いて標高427mの内山峠を越えなければならない。峠までは延々と登りが続き、途中に嗚呼難儀坂という坂があり、「あなぎざか」と読むが、どう考えても「あーなんぎ」という実感が地名の由来だと思えてしまう。
 但し、『楽郊紀聞』には、坂の途中に大木があり、その木に穴があり、その穴を通って通交しなければならなかった。その“穴木”が坂の名前になったと、こちらもいかにもという地名の由来だ。
 内山坂トンネルが開通し、車での移動も楽になったとはいえ、まだカーブですれ違う際には緊張もする。より安全に車が行き交えるよう、完全2車線化が進んでおり、もと気軽に内山に遊びにいける、そんな日も遠くないようだ。
内山周辺地図  出典:国土地理院地形図(村名拡大/地名・施設名等を追加)
炭焼きの里
 かつて火力エネルギーの主が“木”であった頃、対馬でもさまざまな場所で炭焼きが行われていた。厳原町では、内山と日掛が産地で、「日掛の白炭」「内山の黒炭」として知られていた。
 1884年(明治17年)『上下県郡村誌 』では戸数27戸、人口119人等の他に、輸出された物産として、蜂蜜、椎茸、薯類(山芋)とともに木炭が、生産量13,500斤(8,100kg)のうち13,100斤(7,860kg)が厳原港から出荷されていたと記録されている。
 現在も内山では家によっては細々とではあるが、炭を焼いている。炭焼きは、木の切り出し、窯入れ、窯出し等、各作業を週末に集中的に行うことが可能なので、仕事を持ちながら副業としてもできる。定年後に本業として本格的に取り組んでいる家もある。
 しかし、体力勝負でもあり、腰を痛めることも多く、わが子に積極的に継いでほしいと言う人はいない。今焼いている人たちがやめれば、内山の炭焼きが消滅する可能性は高いという。2022年現在、5名が炭を焼いている。
ここには2軒分の炭焼き窯、4基が並んでいる
窯焚き中の窯
かつては開拓団入植も
 第二次大戦後、集落の西側「桃ノ木」と呼ばれるエリアに、島内から10戸の開拓団が入植した。各戸に1町5反の土地(未開発の原野)を分配し、そこを各自で畑地にし、農業を始めてもらうという計画だった。
 1955年(昭和30年)頃から畑を水田に変更する水田計画が実施され、1965年(昭和40年)頃には、営農成績が芳しくない世帯には離農資金を出して離農を促進。10戸のうち5戸がやめて、その農地を残った人たちが買い取った。
 その後、入植者の高齢化により、次第に耕作者が減少。現在は2代目が住んでいる家もあるが、空家も多いようだ。
校舎、グラウンドは健在。旧内山分校
 1875年(明治8年)頃、「内山小学校」として開校し、その後「公立小茂田学区内山分校」に。当時の生徒数は男子のみ10人。
 明治34年、「久田尋常小学校内山分校」となり、その後校名の変更等を経ながら、「久田小学校内山分校」として2013年(平成25年)ねん3月31日に廃校となった。
 2017年秋から2020年7月までの約3年間、天然酵母パンのmountain mountainが元内山分校の給食調理室を利用し、ベーカリー&カフェをオープンしたことがある。月に3回か4回の営業だったが、内山分校が島内から注目された3年間だった。
 mountain mountainが退いて後は、内山地区のコミュニティセンターとしての役割を担い、地区のゲートボール大会、グランドゴルフ大会などの会場となっている。
老若男女総出の内山地区グランドゴルフ大会
2022年のツシマヤマネコの南限か
 2022年、内山の掲示板に「内山地区にヤマネコ出現!」のポスターが貼られるようになった。かつては全島に生息していたツシマヤマネコだが、長く上島でしか生存が確認されていなかったところ、2000年を超えた頃から徐々に下島でも発見されるようになった。それがついに内山でも、というわけだ。
 内山のヤマネコ発見はかなりスペシャルだった。
 内山の南西2キロほどのところに、保護され人に育てられたツシマヤマネコを野生に戻すための「ツシマヤマネコ野生順化ステーション」がある。そこのケージの中では順化トレーニングを行っているメスのヤマネコがおり、ある夜、そのメスを求めて野生のオスのヤマネコがケージの中に入り込んだらしく、朝、職員に見つかり、つまみ出されたというものだった。
 この話を聞き、その発見を知らせるポスターが、「内山盆地の里 やまねこ会」によって作ら、広く周知されることになった。
内山の掲示板に貼られた「ヤマネコ出現」を伝えるポスター
江戸時代、麦の生産量は倍増したが、人口は3割減
 自然が豊かな内山だが、江戸時代の内山村はどんな村だったか、下の2つのデータを基に想像してみた。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約23石、戸数25、人口141、神社1、寺1、
給人4、公役人8、肝煎1、猟師3、牛8、馬26、船0 

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦178石、家25、人口112、男51、女47、
10歳以下14、牛13、馬22、孝行芋206俵

 まず戸数は同じなのに人口が減っていることに気付く。元禄の人口は10歳以下を含んでいないので、文久もそれに揃えると98人となり、160年で43人も減ったことになる。増えるか横ばいの村は多いが、3割減は極めて珍しい。
 それに、米麦の生産量(江戸初期の内山はすべて麦だろう)が92石(23石×4)から178石と、ほぼ倍増というのも珍しい。
山野の開発に多くの労働力が不可欠だった江戸前期
 その理由を考えてみた。
 まず、給人4軒、公役人8軒、神社1軒、寺1軒、これはほとんど変わらないはずで、これらの家族人数もあまり変化しないだろう。それ以外の家となると、分家や「余間(隠居家)」、「被官(給人隷属の農民)」、「名子」と呼ばれる小作人ということになる。以上の家々に40人ほどを収容するとなると、やはり比較的余裕のある給人の家であり、給人家には家族以外に多くの人間が住んでいたと考えるのが妥当だろう。
 その中には下男、下女に加え、犯罪を犯して罰として奴婢(ぬひ)に落とされた者もいただろうし、島外から出稼ぎに来ていた者もいたに違いない。
 江戸時代、内山が存続、発展するためには、大木だらけの原始林を切り開き、木庭(焼畑)を増やすことが不可欠だった。そのために他の村以上に労働力が必要だった。だから食料が少なくてもそれを分け合いながら頑張るしかなかった、ということではないだろうか(1700年は年間一人当たり0.48石/全村で最低レベル)。
 開発が一段落した江戸末期、内山の年間一人当たりの米麦消費量は、対馬の平均(1.1石)を少し超えるくらいまでになっていた。
【地名の由来】 山の中、内側にあるので、内山。この説がシンプルでわかりやすいが、そのほかに、龍良山の南面を「卒土山(そとやま)」といい、対照的に龍良山の北側であるこのエリアを「内山」といったという説もある。
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