対馬全カタログ「村落」
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2023年1月16日
上県町
女連
【うなつら】
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「うなつら」と読む
難読地名の村は、あの
オウゴンオニユリの発生地
日本中どこにもない地名
 かつて「おなつら」と呼び「女面」という字を使ったこともあったようだ。しかし1401年(応永8年)、室町時代前期には「女連」と表わし、15世紀後半の朝鮮の書『海東諸国紀』には「干那豆羅(うなつら)」と書かれており、「うなつら」という発音もかなり前からのようだ。
 地名の由来としては、仁田湾対岸の「伊奈」に関連付けて語られることが多い。「小伊奈浦」から発音が変化してとか、「伊奈津浦」からの変化だとか。ただどうして「伊奈」と関係しているのかが伝わってこない。
 女連ならではのジョークがある。
 SNSで「今、どこにいる?」と妻に聞かれ、「対馬、女連」と返信したら、妻から怒りのメッセージが届いた、というもの。ふりがな不可欠の村である。
見張り役、追い立て役でイルカ漁に参加
 かつては対馬海流に乗ってイルカの大群が回遊し、回遊ルートにある仁田湾はイルカ漁で湧いた。女連はイルカの群れを見つけやく、その地の利を生かして、伊奈、志多留の漁に参加し、イルカ漁は3村共同で行われた。
 イルカの群れを確認するとノロシで知らせると同時に、船でイルカを追い立てる。検分役が船で漁場に急行し、漁を見届けた。
 見張り役は女連と伊奈崎にいて、発見するとノロシで知らせた。女連の人間が発見すれば、100頭につき2頭が、他の2村の者が発見すれば1頭が、それぞれの村の取り分となった。女連が多いのは、追い込みに10キロも漕ぐためだそうだ。
女連の沖を通過し海岸に沿って北上する鯨やイルカは、伊奈方面に向かうことになる。特にイルカ漁はこの地形が味方した  出典:国土地理院地形図(村名拡大/地名追加)
江戸期の戸数減・人口減が物語るもの
 下記のデータは、1700年と1861年の女連のデータだ。統計の目的が異なるので項目に違いはあるが、米麦の生産高、戸数、人口(1700年の人口は11歳以上)、牛馬の頭数などは比較できる。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』より
物成約48石、戸数35、人口(11歳以上)190、神社1、寺1、給人2、公役人22、肝煎2、猟師5、牛41、馬3、船10
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』より
籾麦266石、家30、人口152、男63、女68、10歳以下21、牛55、馬2、孝行芋1920俵

 変化の少ない江戸時代に、戸数が5戸も減り、人口が59人減と31%も減るのは、対馬では珍しい。減った家は密貿易(対馬では「潜商」と言った)を行っており、厳しく罰せられたのかも知れない。
 朝鮮半島に近い上島の北部と西海岸は、潜商が多かった。戸数と人口の両方が減っていたら、十分考えられる事案だ。
冬の朝鮮半島からの北西風「アナジ」から港や船を守るため、漁港は4重の防波堤で守られている
対馬を代表する植物、オウゴンオニユリの里
 オレンジ色の花を咲かせるオニユリの突然変異種として知られる黄色いオウゴンオニユリ。その発生地として知られる女連だが、150年ほど前、つまり明治初期に発見されたと考えられている。
 1933年(昭和8年)に初めて文献にも登場。女連の人が植物図鑑で有名な牧野富太郎に球根を送り、それが庭で栽培されて標本となり、牧野富太郎に「オウゴンオニユリ」と命名された。
 現在、女連のオウゴンオニユリは、対馬の主要官庁の庭や、各家庭でも栽培され、ヒトツバタゴと並ぶ対馬を代表する花として大切にされている。しかし、残念ながら、野生の株は鹿やイノシシの食害により、2000年代に絶滅したと考えられている。
女連系のオウゴンオニユリ。他に斑点の小さな上対馬町泉系のものもある
立岩が有名な女連海岸
 女連から海岸線を少し南に下ると、下の写真のような光景に出会う。これが立岩だ。堆積岩が水平にではなく縦に重なっている。地殻変動で地層が立ち上がり、それが浸食されて今のような形が形成された。
 また、立岩の近くに、スフィンクス岩と呼ばれる岩がある。今の時代であれば「ネコバス岩」という表現の方がピッタリくるような岩だ。
 立岩に至るまでの岩場には遊歩道が設けられているが、波で一部欠損することもあるようだ。また満潮時に波が打ち寄せると靴を濡らすこともある。十分気を付けてほしい。
これが女連の立岩。西津屋の立石より二回りほどデカい (2003年)
スフィンクスに見えるか、ガメラに見えるか、ネコバスに見えるか
【地名の由来】 本文参照
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