下記のデータは、1700年と1861年の女連のデータだ。統計の目的が異なるので項目に違いはあるが、米麦の生産高、戸数、人口(1700年の人口は11歳以上)、牛馬の頭数などは比較できる。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』より
物成約48石、戸数35、人口(11歳以上)190、神社1、寺1、給人2、公役人22、肝煎2、猟師5、牛41、馬3、船10
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』より
籾麦266石、家30、人口152、男63、女68、10歳以下21、牛55、馬2、孝行芋1920俵
変化の少ない江戸時代に、戸数が5戸も減り、人口が59人減と31%も減るのは、対馬では珍しい。減った家は密貿易(対馬では「潜商」と言った)を行っており、厳しく罰せられたのかも知れない。
朝鮮半島に近い上島の北部と西海岸は、潜商が多かった。戸数と人口の両方が減っていたら、十分考えられる事案だ。