対馬全カタログ「村落」
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2023年1月28日
美津島町
玉調
【たまづけ】
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一度歴史から消えた村を
甦らせたのは
島外からの入植者だった
かつて「玉調」という村があった
 平安時代中期につくられた辞書『倭名類聚鈔』の二十巻本・巻九に、対馬の郷名として、「豆酘」「鶏知」「賀志」「三根」「佐護」などとともに「玉調」が載っており、この史料だけでは場所は特定できないが、対馬で「玉調」という村がかつては栄えていたことがうかがい知れる。
 その場所を特定するヒントは、江戸中期の書『対馬紀略』にあった。『対馬紀略』は、江戸時代中期に活躍した対馬三聖人の一人、陶山訥庵が対馬の歴史を著した書だが、その中に「大船越の北に無人の浦ありて玉調と号す」という一文があった。
 訥庵自身は、かつて栄えた玉調を現在の厳原町阿連付近と考えていたようだが、その後の発掘などによって、現在の玉調付近をかつて豪族が拠点にしていたことがわかり、あの「玉調郷」の中心ではないかという説が信ぴょう性を持ってきた。
弥生後期から古墳時代の遺跡が続々
 部落内の畑地から奈良時代の須恵器の破片が多数見つかったのが始まりだった。現在は埋められブロック会社の敷地になっていると『美津島町誌』に書かれてあるが、かつてその周辺は玉調の中心だったのではないだろうか。
 その後、1968年(昭和43年)の浅茅湾沿岸遺跡調査で、五次郎と呼ばれる海岸の低い台地の上で弥生中期から後期にかけての石棺群(玉調浦五次郎遺跡)が確認されている。
 玉調から島山に向う道路の入口辺り、ハナデンポと呼ばれる丘の先端部でも同様の弥生後期の遺物を含む石棺(玉調ハナデンポ遺跡)が発掘調査され、さらに集落からは離れた玉調浦の中程にも3つの遺跡(玉調第2・第3・第4遺跡)も発見された。
玉調周辺地図:古代の玉調浦は浦深くまで入り込んでいた(透過部分)
・赤いドット罫は想定できるかつての玉調・犬吠ルート
・緑の部分が奈良時代の須恵器発見場所(文章から推定)
出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡・交易ルート記入等)
かつての玉調の繁栄のベースは交易
 玉調は、大船越の水路が完成する1672年以前は、浅茅湾の最奥部にあたり、ひと山超えれば東の海(対馬海峡)に出ることができる。その地の利を生かして、古代は交易を主たる営みにしていた、というのが多くの郷土史家の見立てだ。
 その東側の村は現在の犬吠。犬吠も一度消滅した可能性があり、2つの村は交易ルートで結ばれた運命共同体的な関係であったと考える郷土史家も多い。そして、原因はどうあれ、その「 玉調ー犬吠ルート」の衰退が、2つの村の消滅につながったと考えられている。(玉調周辺地図参照)
かつては交易船の往来が絶えなかったと言われている玉調浦:中央に立っているのは「真珠(しらたま)の乙女像」
中世から近世中ごろまで無人
 『津島紀事』には大山村の説明の中に「玉調浦は村の南にある。(村名の由来は)かつてこの浦が真珠の貢ぎが最も多かったからだろうか。東側が久須保の田畑なので、民は久須保の玉調と(勘違いして)呼んでいる」という一文がある。
 いつの頃からかはわからないが、玉調は大山領だった。一度玉調が消滅した頃のさまざまな事情と関係あってのことかも知れないが、史料はない。
 現在の玉調は、享保年間(1716年~1736年)に対馬藩領であった肥前田代(現在の佐賀県鳥栖市の一部)の農民の移住によってスタートした。対馬からみれば、田代は農業先進地で、田代の農民は農地開発、開田のスペシャリストだった。
 かつて「玉調3軒」と言われたそうだが、最初の入植者は3軒だったのだろうか。大山の戸数が元禄から160年間で2戸しか増えておらず、その中には玉調も含まれることを考慮すると、「田代3軒」は妥当な数字だ。その後、分家も増え、明治になった頃には5、6軒になっていたそうだ。
現在の玉調集落:写っている田畑は江戸時代に埋立てられ開かれたもの
【地名の由来】 真珠の産地で、玉を調(みつぎ)したからと言われている。ただ、国道沿いの村の紹介案内板に「万関瀬戸が掘りきられる前は最も奥の入り江だったので、地名に「つく(調)」の字が表されたと書かれている。
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