『津島紀事』には大山村の説明の中に「玉調浦は村の南にある。(村名の由来は)かつてこの浦が真珠の貢ぎが最も多かったからだろうか。東側が久須保の田畑なので、民は久須保の玉調と(勘違いして)呼んでいる」という一文がある。
いつの頃からかはわからないが、玉調は大山領だった。一度玉調が消滅した頃のさまざまな事情と関係あってのことかも知れないが、史料はない。
現在の玉調は、享保年間(1716年~1736年)に対馬藩領であった肥前田代(現在の佐賀県鳥栖市の一部)の農民の移住によってスタートした。対馬からみれば、田代は農業先進地で、田代の農民は農地開発、開田のスペシャリストだった。
かつて「玉調3軒」と言われたそうだが、最初の入植者は3軒だったのだろうか。大山の戸数が元禄から160年間で2戸しか増えておらず、その中には玉調も含まれることを考慮すると、「田代3軒」は妥当な数字だ。その後、分家も増え、明治になった頃には5、6軒になっていたそうだ。