対馬全カタログ「村落」
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2024年5月1日更新
豊玉町
【そ】
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美しい聖観音立像を
村の懐に抱きながら
縄文に始まる歴史を歩む
閉校となった小学校は明治8年から147年間存続
 対馬東海岸のほぼ中央、南東に開いた浦口と大きく湾曲した地形が特徴の曽ノ浦。その最奥部に位置する曽は、外洋の風波の影響を受けにくいからか、縄文時代末期から人の営みがあったとされている。
 2020年(令和2年)の国勢調査で曽の人口と世帯数は、266人129世帯で、豊玉町エリアでは仁位に次いで2番目の規模だが、小字である位ノ端地区も含んでいるので、曽地区としてはそのほぼ半分となる。
 半分と考えれば、おそらく千尋藻地区、水崎地区に次いで、4位、あるいは5位となるのではないだろうか。
 地区内に小学校が1875年(明治8年)から2023年(令和5年)3月まで存立するなど、対馬としては比較的大きな集落だ。
曽ノ浦周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡追加等)
縄文、弥生、そして古墳時代の遺跡も
 海に近い丘陵地で1973年(昭和48年)に発見された住吉平貝塚は、縄文時代晩期終末(2900年前頃)から弥生時代前期後半(2100年前頃)にかけての貝塚遺跡で、女性の人骨も発見されている。  海際に1~2軒程度の住居があり、弥生中期にはどこかへ移動したと考えられている。その頃にここにも稲作が伝わり、それに適した土地に引越したということだろうか。  また、曽浦の入口の観音崎の大地に箱式石棺の群があり、「観音崎遺跡」と呼ばれている。弥生時代後期から古墳時代のものと考えられており、2号棺からは瀬戸内様式の土器も出土している。曽の人々が、北九州だけでなく本州方面にもルートを持ち、朝鮮半島と交易していたことがうかがわれる。  曽川を奥の方に遡っていくとクワバル古墳がある。対馬では珍しい海岸線から離れた古墳で、その理由は謎とされている。遺物として土師器や韓国系陶質土器、勾玉などが出土し、古墳時代中期初頭のものと考えられている。
曽周辺地図  出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡等追加)、長崎県遺跡地図
クワバル古墳:町道開通のために大きく削られてしまったが、川側にのびた丘の上にある。現在は石棺がむき出しだが、本来は自然石の積石古墳
海がさらに奥まで入り込んでいた中世
 曽は「梅野」姓の多い村だが、室町時代中頃の文書からもそのことがうかがえる。1436年(永享8年)の文書に仁位郡主から梅野左衛門五郎宛ての安堵書下写しを筆頭に、1469年(応仁3年)、1471年(文明3年)、1483年(文明15年)、1487年(文明19年)、1493年(明応2年)と、曽村の梅野某宛てに知行安堵の書状が発行されている。
 1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には「所温老浦」として表記され戸数100余戸とあり、当時もそれなりに大きな集落と認識されていたことがわかる。
 また、室町時代はまだ曽川河口の埋立ても行われておらず、船を係留できたとされる大船隈(たいせんぐま)辺りまで海がきていた。満潮になればさらに少し上流の嶋御子神社辺りが波打際で、元の集落は瀬田辺りにあったらしい。
開きによって、生産量も人口も約1.5倍に
 1666年(寛文6年)2月の『毎日記』に、寛文年間前半(1661~1666年)、田代村から移住してきた百姓に、曽と和板の水田開発を任せたがうまくいかず、彼らから曽と和板には水田に適した土地がないので、志多留村の田ノ浜に移りたいという申し出があった、という記録がある。
 寛文年間の水田開発は見送られたが、1677年(延宝5年)から開き(干拓)の記録が登場するようになり、その成果が1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』の「物成(年貢)約74石」に現れている。収穫量に換算すると「296石」となり、その1/3が村人の口に入るとして計算すると、一人当たり1日2合弱となり、対馬の村の平均が1.3合なので、対馬としては恵まれた食環境であったことがわかる。(ただし人口は10歳以上で計算)
 その後、宝永・正徳年間(1704~1715年)に開きが行われ、田畑、宅地になったと記録にあるが、1766年の記録によると年貢39石と、66年前に比べほぼ半減している。おそらく飢饉があったのではないだろうか。
 幕末期の1861年(文久元年)には米麦の生産量が442石(物成は1/4の110.5石)と盛り返しており、人口も236人に増加。子供を除いた人口では元禄時代から147%アップし、一人当たり1日2合強と、わずかながら増加している。
 生産量の増加率(149%)だけ人口も増加しており、江戸時代の曽は村として順当に発展したと言えそうだ。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約74石、戸数32、人口136、神社2、寺2、
給人3、公役人10、肝煎1、猟師6、牛21、馬22、船4

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦442石、家35、人口236、男99、女101、
10歳以下36、牛48、馬30、孝行芋2,287俵
漁業解禁の明治時代
 明治時代になると税制が変わったので単純に比較できないが、米麦の地租は約66石と幕末期より減少。その代わりに、現金収入を得るための農作物の栽培が増え、また漁業解禁にともない海産物の収獲が増えた。
 明治17年の『郡村誌』によると、曽の物産として大豆21石、蕎麦79石、栗18石、サツマイモ28万斤(約170トン)のほかに、タバコ360斤(216kg)、綿252斤(約152kg) 、椎茸240斤(144kg)とあり、さらに海産物としてイカ1,200斤(720kg)が加わり、その多くは厳原に送られていたそうだ。
イカ漁に湧いた時代があった
 対馬の東海岸沖は、日本有数のイカ漁場として有名だが、冬になると山口県から「三島船団」と呼ばれるイカ漁の船が押し寄せ、最盛期には30隻が曽に寄港。旅漁師が風呂を分けてもらったり、水をもらったりする家が決まっていたそうだ。
 また、「賃干し」といって、1杯何円、1kg何円で、イカのワタ(内臓)を取り、乾燥させるアルバイトが曽の人たちの副収入となった。
 さらに村人の中にもイカ漁を始める人が増え、最盛期には10隻くらい地元のイカ釣船が登録され、加工組合も設立されたという。大漁時は学校の途中でも呼び出しがかかったりし、村中総出で対応したそうだ。
 しかし、昭和48年をピークに不漁となり、船団の入港はなくなり、地元のイカ釣船も廃業したり、遠洋に出かけるようになった。
2002年の浜と、2021年の浜:漁船の数がさらに減り、2021年はほとんど係留されていない
観音堂と聖観音立像
 対馬六観音の一つである曽の観音様にはユニークな伝承がある。
 かつてこの観音像は峰町吉田にあったそうだが、1224年(元仁元年)のある日、吉田の僧と修林寺の僧が双六で賭けをして遊んでいると、賭けるものがなくなった吉田の僧が観音像を賭けたが負けてしまい、観音像は修林寺に。その後、返した方がいいかどうか占うと「ここを去るまじ」と出たので、観音堂を建てて安置することになった、というものだ。
 対馬六観音は6体とも、白鳳・奈良時代の僧・行基が、唐から帰りに対馬に寄り、その際に彫ったものと言われているが、調査によると現存の六観音は中世の作が多く、曽の観音像は室町南北朝時代の中央仏師によるものとみられている。そもそも行基は唐には行っていない。
 対馬六観音には素朴な印象の観音像が多く、洗練された美しさで魅了する曽の聖観音立像はさずが中央の腕のある仏師によるものと納得させられる。ちなみに観音堂の鍵は区長管理となっているようだ。
聖観音立像:盗難防止のために錠付ガラスドアで守られているが、ガラス越しでもその美しさ、ありがたみは十分伝わってくる
曽の観音堂:修林寺の墓地の左に設けられた石段の上にある
全国規模の大会で特別賞を受賞、「曽の盆踊り」
 曽の盆踊りは1960年(昭和35年)頃まで続いたが、約20年後の1981年(昭和56年)に消防団主体で復活した。その後は「乙宮青年団」が引き継ぎ、1991年(平成3年)には、全国青年大会・郷土芸能の部に県代表として出場。特別賞を受賞し、対馬の名を全国に広めた。
 しかし、1999年(平成11年)の盆踊り直前に関係者が蜂に刺されて亡くなるという事故が発生し、翌年にその方の初盆で踊りを披露したのが最後になった。
 『対馬の盆踊 資料集』で紹介されている曽の盆踊りの特徴を引用する。「祝言三番と手踊を白着物で踊り、黒着物に着替えて杖踊、太刀踊を踊るという古格を守った番組構成をとり、杖の打ち合いや行列道具を滑稽に振るなどの次第が残り、見るべきところが多い」。
 2列10人で踊る曽の盆踊り。残念ながら、最近はさらなる人口減少で踊り手が少なく、復活・維持が難しいそうだ。
小学校閉校式に1日限定で「曽の盆踊り」復活
 冒頭に書いた乙宮小学校廃校にともなう閉校式で、2000年(平成12年)から途絶えていた「曽の盆踊り」が舞われた。
 歴代の踊り手たち6人が参加し、小学生にも指導して、総勢15人による1日限りの盆踊り復活。扇子踊りと手踊りが披露され、これが小学校最後の催しとなった。
 これが契機となり、またいつかどこかで曽の盆踊りが舞われることを期待したい。
嶋御子神社は「島大国魂御子神社」か
 曽の氏神様、嶋御子神社は「しまのみこじんじゃ」と読み、「嶋之御子神社」と表記されることもある。かつては「島之尊大明神」とも呼ばれた。
 郷土史家の永留久恵氏は、曽の嶋御子神社を『延喜式』神名帳に記載されている「島大国魂御子神社」と比定しており、『豊玉町誌』でもその説が有力としている。
 「島大国魂御子神社」説をとると、祭神は島御子神=島大国魂御子となる。新暦6月1日と11月1日に祭礼が行われている。
嶋御子神社
どのように使ったのか「曽の力石」
 嶋御子神社の入口近くに「曽の力石」と呼ばれている、3個の石が並べられ、横に解説板が立てかけられている。力比べや体力を養うために用いられた考えられ、嶋御子神社に6個遺っている。その内の3個には字が刻んであり、「昭和十四年七月 雨乞紀念 曽氏子中」と彫られた石と、「二」「三」と数字が彫られた石があるところから、奉納用として使われたものと考えられている。
 3個1組が2組あるところから、「舟ぐろう」と同じように2チームに分かれ、神様を楽しませるために競争をしたのかも知れない。「舟ぐろう」が他地区ほど盛んではなかったと言われる曽。力石がその理由の一つだったのかも知れない。
曽の力石
【地名の由来】奥の深い浦という意味の「底浦」がなまって「そ」になったのでは、という説もあるが、金達寿の『古代朝鮮と日本文化』のP37~41で紹介されている、「ソ」は新羅の原号であり民族名であり、それが日本の地名に反映されている(例えば「阿蘇」)という説が気になる。但し、そうであればあまりにストレート過ぎるが。
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