対馬全カタログ「村落」
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2023年1月6日更新
豊玉町
貝鮒
【かいふな】
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かつて交易で栄え、
砥石も産した。
今は、真珠で頑張る
古墳が語る、古の繁栄
 貝鮒は、上島から浅茅湾に突き出た小さな半島の先端部の入江にある。そのさらに先の岬は貝鮒崎と呼ばれ、そこには浅茅湾岸唯一の高塚式の古墳がある。
 貝鮒崎古墳は1968年(昭和43年)に発見された。原形は損なわれているが、低い台地に石を積み上げただけのシンプルなもので、東西約9m、南北13~14m、高さ約1.5mの楕円形墳。年代は500年前後と推定されており、対馬における権力の中枢がこの付近(仁位)から既に下島の鶏知に移ったとされているこの時期にも、浅茅湾で大きな勢力を誇った一派がここにいたことを伝えてくれる。
 また、貝鮒崎には古墳以外にも破壊された石棺の跡があり、さらに浦口の西側の岬・白銀崎にも中世の墳墓群の中に破壊された石棺群があることから、弥生時代からのこの辺り一帯が繁栄していたことがうかがえる。
貝鮒崎古墳は貝鮒浦の岬(貝鮒崎)先端部の小高い台地にある。先端部中腹の白い四角い点はその案内板か
破壊された石棺群のある白銀崎と、白銀神社のある白銀島。浦奥に見える集落が貝鮒
中世の繁栄は、朝鮮との交易のたまもの
 古墳時代から経ること約1000年。室町時代中期1472年に朝鮮で編さんされた『海東諸国紀』に、貝鮒には朝鮮国より官職を受けて優遇された「受職倭人」がいたことが記されている。「受職倭人」とは朝鮮国の倭寇懐柔策のひとつで、倭寇をやめて朝鮮国と友好関係を結ぶ者に対して、官職を与え、それなりの特権を与え優遇した。
 この村の受職倭人は、朝鮮渡航の通行権をもち、朝鮮の三浦(さんぽ)の日本人とも交流があり、朝鮮との間で船の売り買いや人の売り買いを行っていたと記録にある。その当時の貝鮒の繁栄を伝えているのが『海東諸国紀』に記載された戸数200余戸という数字だ。中世の石塚が無数にあるのも、この繁栄ゆえだろうか。
 しかし藩によって朝鮮との貿易が大幅に制限された江戸時代、1703年(元禄16年)の郷村帳には家数26軒と記され、そしてそれまでの地名表記「海船」「海舟」に変わり、はじめて「貝鮒」の字が当てられた。
貝鮒を護るが如く、浦口に鎮座する白銀(しろがね)神社
戦後は真珠養殖の村
 藩は貿易を禁じ、農業を主体とした産業構造をめざしたが、貝鮒には土地が少ない。そこで西の対岸にある浦々を飛地として貝鮒領とし、耕作地を確保したが、やはり戸数の減少は避けられなかったようだ。
 第二次大戦後に対馬の経済を支えてきた真珠養殖は、貝鮒にも大きな転機をもたらした。1955年(昭和30年)からはじまった貝鮒の真珠養殖は、現金収入が得られる仕事として人々に歓迎され、1983年(昭和58年)には真珠養殖14、母貝養殖4の免許件数となっていた。つまり、ほとんどの家が真珠に関わっていた。
  しかし、2003年9月現在は7軒。バブル崩壊後の不況による真珠の価格低迷と、高水温による生産量の減少が真珠業界を攻め、この村を攻めた。この成り行きは真珠で生きる多くの浅茅湾岸の村でも同様だが、若い貝を使うことで高水温対策はとりあえず完了したそうだ。
土地の少ない貝鮒地区。主要道路は堤防の一部(壁面内側)を流用、家の前が船着場だ
集落部(オレンジ部分)の狭さと対照的に、広大な広さを誇る貝鮒エリア(赤枠内)
伝統の対馬砥石、今は産業用として活躍
 貝鮒の飛地である西対岸の一帯(水崎の東海岸)では、砥石に最適な粘板岩の石が採れる。対馬砥石は江戸時代から「浅海の青砥」の名で知られ、特に刀砥ぎ用の仕上げ砥石として島外にも出荷されていた。
 明治、大正時代には、貝鮒で砥石製造が行われ、製品は関西、名古屋方面に送られ、工業用として使用された。戦後は一時、貝鮒、嵯峨、糸瀬の3カ所で製造されていたが、現在は貝鮒だけ。明治から砥石製造業を営んでいる1軒が真珠養殖の閉暇期に操業し、年間4トン前後を東京、関西方面に出荷している。高級金メッキ製品の光沢はここの砥石がなければ生まれないという。
さまざまな形状の対馬砥石
【地名の由来】 かつては「海船」とも書いた。船乗りの多い浦という意味の「海夫浦」→「海夫奈」からという説と、この村の沖が狭い水路であることから、峡(海峡)の古語にあたる「かい」と「ふな=船」を合わせたものという説がある。
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