時代が下り江戸時代、第4代将軍家綱の時世、1672年(寛文12年)、対馬藩は交易を独占するために19物品の島外への販売を禁止し、その中に砥石も入っていた。砥石生産が許されていた3村(貝鮒・嵯峨・志多賀)は島外販売を藩に申請したが、許可されたのは禁止されて95年後、1767年(明和4年)のことだった。
ただし、1692年(元禄)に発刊した当時の日本全国地誌、旅行ガイドともいうべき『国花万葉記』で、また1712年(正徳2年)出版の当時の百科事典『和漢三才図会』で、”対馬国の名物土産“として「青砥石」の名がある。1700年前後に土産として本土に持ち帰ることができた、ということは、対馬島内では販売されていた、ということだろう。
対馬でしか手に入らない物だけに、土産品としての価値は高く、もらった人からは大いに喜ばれたに違いない。
明治の中頃から砥石製造は貝鮒でのみ行われ、製品は関西、名古屋方面に送られ、特に工業用として使用された。戦後は一時、貝鮒、嵯峨、佐志賀の3カ所で製造されていたが、現在は貝鮒だけだ。
採掘場所は、仁位浅茅湾の入口西側の一重崎、二子島付近で、金木(かなき)と呼ばれる一帯だ。水崎の東海岸となるこの辺は貝鮒の飛地で、かつては陸上で採掘されていたようだが、ある時期から海底採掘にシフトされた。
現在は、明治から砥石製造業を営んでいる貝鮒の阿比留さん1軒が、真珠養殖の閉暇期に操業。受注生産のみの対応で、年間4トン前後を東京、関西方面に出荷している。 用途としては、日本刀の細工の仕上げ、包丁、金銀細工など。高級金メッキ製品の光沢はここの砥石がなければ生まれないという。
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