対馬全カタログ「特産品」
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2021年2月14日更新
対馬砥石
【つしまといし】
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刀の時代の必需品は
現代でも、貴重な金属製品の
研磨に欠かせない
こだわりの逸品「対馬名倉」
 浅茅湾で採れる砥石は、江戸時代から「浅茅の青砥」の名で知られ、特に刀砥ぎ用の仕上げ砥石として島外にも出荷されていた。色はわずかに青みを帯びた黒で、不純物が少なく均等な粒子で形成されているため、研ぎムラも出にくく研ぎやすいのが特徴だ。ただ割れやすいので、割れ防止加工をするか、水で濡らしておかなければいけない。
 また、有名な愛知県三河の「名倉砥」あるいは「白名倉」と並び称され、「黒名倉」とも呼ばれている。名倉砥が、仕上げ用の硬い砥石と擦り合わせて、研磨に欠かせない研ぎ汁を出すために用いられることから、そのような用途の砥石は「名倉」と呼ばれ、対馬砥石のなかでも名倉として使いやすいように4cm角ほどの立方体にカットされたものが「対馬名倉」「対馬黒名倉」として販売されている。研ぎの専門家たちに高い評価を得ている。
対馬名倉
刀、槍の時代の必需品
 鎌倉時代以降、対馬砥石は全国に流通していたようで、青森県以南、各地の中世遺跡から出土している。武士の時代には、刀や槍などの金属製の武器のメンテナンスには欠かせないもの。かなりの需要があったはずだ。
 また、一例だけだが、対馬の中世の文書にも砥石は登場している。1426年(応永33年)、尾崎を拠点とし倭寇の頭目から貿易商人へと転身した早田左衛門太郎が、330個の対馬砥石を朝鮮に進上し、玄米15石(約2,250kg)を賜ったとある。対馬砥石が朝鮮半島にも知れ渡っていたということだろうか。
江戸時代は対馬の名物土産品として
 時代が下り江戸時代、第4代将軍家綱の時世、1672年(寛文12年)、対馬藩は交易を独占するために19物品の島外への販売を禁止し、その中に砥石も入っていた。砥石生産が許されていた3村(貝鮒・嵯峨・志多賀)は島外販売を藩に申請したが、許可されたのは禁止されて95年後、1767年(明和4年)のことだった。
 ただし、1692年(元禄)に発刊した当時の日本全国地誌、旅行ガイドともいうべき『国花万葉記』で、また1712年(正徳2年)出版の当時の百科事典『和漢三才図会』で、”対馬国の名物土産“として「青砥石」の名がある。1700年前後に土産として本土に持ち帰ることができた、ということは、対馬島内では販売されていた、ということだろう。
 対馬でしか手に入らない物だけに、土産品としての価値は高く、もらった人からは大いに喜ばれたに違いない。
『国花万葉記』14巻下より
現在も貝鮒で受注生産
 明治の中頃から砥石製造は貝鮒でのみ行われ、製品は関西、名古屋方面に送られ、特に工業用として使用された。戦後は一時、貝鮒、嵯峨、佐志賀の3カ所で製造されていたが、現在は貝鮒だけだ。
 採掘場所は、仁位浅茅湾の入口西側の一重崎、二子島付近で、金木(かなき)と呼ばれる一帯だ。水崎の東海岸となるこの辺は貝鮒の飛地で、かつては陸上で採掘されていたようだが、ある時期から海底採掘にシフトされた。
 現在は、明治から砥石製造業を営んでいる貝鮒の阿比留さん1軒が、真珠養殖の閉暇期に操業。受注生産のみの対応で、年間4トン前後を東京、関西方面に出荷している。 用途としては、日本刀の細工の仕上げ、包丁、金銀細工など。高級金メッキ製品の光沢はここの砥石がなければ生まれないという。

ご注文、お問い合わせは、0920-58-0081(阿比留)まで

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