江戸時代元禄の頃(1700年前後)は、戸数7戸、人口30人くらいで、在郷給人や足軽という武士のいない村だった。その後、1772年(明和9年)の資料でも戸数は6~7戸と変化なく、約90年後の1861年(文久元年)の資料では、戸数14戸、人口55人と、ほぼ倍になっている。開き(干拓)によって畑が増えたからだろう。村全体で牛5頭、馬6頭を使う耕地を持っていた。
また、江戸時代、対馬では原則的に各村の漁業は禁止されていたが、後期になると村網(地曳網)が解禁され、イワシやキビナの小魚を獲り、イリコや干鰯(肥料)に加工して商品とした。犬吠の幕末期のイリコ生産請負量は100斤=60kgで、それほど多くはないが、戸数対比で他の村と比べると、対馬としては平均的な量だった。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約12石、戸数7、人口26、神社1、寺1、給人0、公役人4、肝煎1、猟師0、牛2、馬0、船2
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦99石、家14、人口55、男25、女27、10歳以下3、牛5、馬6、孝行芋560俵