ほとんどの船が大船越を通過するようになって、小船越はどう変わったのか。残念ながら航路変更前の史料がなく、正確な比較はできないが、航路が変って28年後、1700年(元禄13年)の郷村帳では、戸数23戸、人口202人となっている。1戸に付き8.8人と、4~6人がほとんどの対馬にしては戸数の割に人が多いのが目を引くが、賑わいを想像できる数字ではない。対馬でよくいわれる「本戸」は14戸、給人1戸を引いて「寄留」は8戸となる。この場合の寄留は分家だろう。つまり小船越は、14戸が農業を営んでいた村だった。
中世の各村の規模を推測させるデータとして朝鮮の書『海東諸国紀』(1471年)の記録がよく用いられるが、そこでは小船越の戸数は100戸となっている。確度の低いデータだが、賑わいを感じる数字だ。少なく見積もって50戸としても、半減。おそらく賑わっていた頃は、宿などもあったのではないだろうか。
もう一つ、対馬における小船越の重要性を伝えているのが、阿痲氐留(あまてる)神社の存在だ。祭神は天日神命(あまのひのみたまのみこと)であり、『魏志倭人伝』に登場する対馬の大官「卑狗(日子)」の流れと推定される県直(あがたのあたい)の祖神といわれている。
『日本書紀』によると、高御産霊(たかみむすび)と日神を、磐余(いわれ:奈良県)に勧請したとある。高御産霊は豆酘の高御産霊だが、日神は小船越の阿痲氐留という説が有力らしい。
壱岐の月神である天月神命(あめのつきのみたまのみこと)も京都の山城に勧請されており、その対となる神(「日」と「月」の一字が違うだけ)ということも有力の根拠のひとつだ。別説として豆酘の多久頭魂という説もあるが、どうだろう。
阿痲氐留神社では、毎年3月に昔ながらの弓射りの神事として「百手祭(ももてまつり)」が今も行われている。的を狙って矢を射り、吉凶や農作物の出来を占う、室町時代頃からの神事だ。九州では広く行われているが、本当に矢を射るところは少なくなってきたらしい。ここでは本当に、国道を超えて、遠くの的に向かって矢を射る。「中世が生きている」とは、昭和20年代の対馬を形容するのによく使われた言葉だが、令和になっても中世が残っている。