朝鮮航路としてはほとんど寄港されなくなった小船越だが、地峡を越えて浅茅湾と対馬海峡側を往来する人々には有益だったに違いなく、それなりに繁栄していたたはずだ。ただ、大船越瀬戸が開通してから、状況は大きく変わった。
航路変更前の史料がなく、正確な比較はできないが、航路が変って28年後、1700年(元禄13年)の郷村帳では、戸数23戸。中世の朝鮮の書『海東諸国紀』(1471年)では小船越は100戸となっている。過大数値の多い書なので、少なく見積もって50戸としても、半減。おそらく賑わっていた頃は、宿などもあったのではないだろうか。
戸数に比べ人口は多い。1700年の人口は202人(10歳以下を含まず)。1戸に付き8.8人と、4~6人がほとんどの対馬にしては特異な数字といえる。さらに、年貢を引いた一人当たりの米麦の量が約0.3石というのは、対馬で最も食糧状況の悪い村の一つということになる。
幕末期には、11歳以上の人口は103人と、元禄期に比べてほぼ半分。一人当たりの米麦の量を計算すると、約0.9石と、対馬の平均1.1石に近づいた。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約21石、戸数23、人口202、神社1、寺1、
給人1、公役人13、肝煎1、猟師6、牛10、馬0、船8
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦123石、家21、人口122、男56、女47、
10歳以下19、牛14、馬11、孝行芋500俵