対馬全カタログ「村落」
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2020年7月12日更新
美津島町
芦浦
【よしがうら】
塩の村は、鯨の村になり、
烏賊の村になったが、
その次が・・・・
それは弥生の塩だったか
この村には、昔々8人が住みついて塩焼きを生業とし、村を開いたとの言い伝えがある。その発祥譚と符合するように塩竈神社があり、塩土老翁が祀られていたが、近世、塩焚きが廃止されると塩竈神社は乙宮神社に改められた。
 昭和43年に地元の中学生が発見した寺越洞窟遺跡は弥生後期のもので、壷や甕形土器、貝輪とともに成人女性2体の人骨が出てきたところから洞窟葬の埋葬遺跡とみられ、対馬では極めて珍しい墳墓遺跡として知られている。
 またこの近辺では古墳時代の遺跡も多く、伝説の8人とそれらの遺物がどの程度関係があるかは知る由もないが、やはり彼らのものであればと思いたくなる。もしそうなら、弥生時代からここで製塩が行われていたということになる。
乙宮神社の境内にある祠。これが塩土老翁を祀った祠だろうか。
雷浦に鯨組
 1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には芦ヶ浦は10余戸と記されている。その頃はあまり目立つような浦ではなかったようだが、江戸時代後期、1832年(天保3年)に芦ヶ浦(正確には雷浦)に鯨組の納屋が置かれると、村はにわかに騒々しくなったようだ。
 対馬の鯨組でもっとも成功したのが、後に「鯨亀谷」ともよばれる亀谷卯右衛門経営の鯨組だ。彼は島内3ヵ所に鯨納屋を置き、春に西海岸沿岸を北上する鯨を捕り、秋に島の東を南下する鯨を狙った。芦ヶ浦には秋納屋が置かれた。
 1847年11月から翌年2月まで赴任した芦ヶ浦鯨奉行の『鯨日記』によると、その期間中にこの浦の沖で発見できた鯨は合計30頭。捕獲できたのは6頭だった。3ヵ所合わせて40頭を捕っていた最盛期に比べると少ないようだ。
雷浦には往時の石垣が残されている
鯨組の衰退
 この翌年の1848年にはアメリカの捕鯨船がオホーツク海、ベーリング海で操業をはじめ、日本近海にも姿を見せるようになる。近代捕鯨の始まりだ。鯨の乱獲が進み、対馬近海には鯨が来なくなった。そして、その船団への燃料、食料、飲料水の補給地を求め、1853年にはペリーが黒船に乗ってやってきた。
 雷浦には鯨組墓がある。そして、地福寺の境内には鯨組の供養碑が建ち、彼岸には村の人によって供養が続けられているという。 
移住者を受け入れやすい村か
 1952年(昭和27年)に淡路島から漁民団が移住。約30隻、80人の大移動で、NHK大阪が移住状況を放送した。ほとんどがイカ漁従事者で、当時対馬はイカ漁で沸いていた。しかし、イカが釣れなくなると徐々に淡路島に戻り、2020年現在、嫁にいった女性一人を残し、最後の家も淡路島に帰ったという。
 また、昭和の後半には韓国から潜水漁を行う漁師たちが、在日韓国人として30世帯ほど住んでいたらしい。それも平成に変わった頃、獲れなくなったので韓国に帰ったそうだ。
 芦浦はおそらく対馬で最も細長い村ではないだろうか。海岸が2.7kmもある。家と家が離れるので干渉されず気楽に暮らせるからか、移住者にとっては住みやすいのかも知れない。島原や天草からの移住者も多い。
 しかし、最近の漁獲量の激減は大問題だ。船はあっても漁に出る機会が少なく、他の収入で生計を立てなければならないのはどの家も同じだという。
 2015年の国勢調査では55戸で138人。人口はおそらく半減だろう。少子高齢化によるものだろうが、それでも戸数があまり減っていないのが、他の村とは明らかに違う。
イカ漁の船(2003年)
浮き桟橋の作業小屋(2003年5月撮影)は2020年も残っていたが、もう仕事には使っていないとのことだった
【地名の由来】紫瀬戸の住吉神社の屋根を葺くのに、この浦の芦を使ったところから、芦浦と呼ばれるようになった、といわれている。
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