2021年2月1日更新
美津島町
芦浦
【よしがうら】
塩の村は、鯨の村になり、
烏賊の村になったが、
その次が・・・・
それは弥生の塩だったか
この地区には、昔々8人が住みついて塩焼きを生業とし、村を開いたとの言い伝えがある。その発祥譚と符合するように塩竈神社があり、塩土老翁が祀られていたが、近世、塩焚きが廃止されると塩竈神社は乙宮神社に改められた。
昭和43年に地元の中学生が発見した寺越洞窟遺跡は弥生後期のもので、壷や甕形土器、貝輪とともに成人女性2体の人骨が出てきたところから洞窟葬の埋葬遺跡とみられ、対馬では極めて珍しい墳墓遺跡として知られている。
またこの近辺では古墳時代の遺跡も多く、伝説の8人とそれらの遺物がどの程度関係があるかは知る由もないが、やはり彼らのものであればと思いたくなる。もしそうなら、弥生時代からここで製塩が行われていたということになる。
乙宮神社:かつての塩竈神社
乙宮神社の境内にある祠。これが塩土老翁を祀った祠だろうか。
雷浦に鯨組
1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には芦ヶ浦は10余戸と記されている。その頃はあまり目立つような浦ではなかったようだが、江戸時代後期、1832年(天保3年)に芦ヶ浦(正確には雷浦)に鯨組の納屋が置かれると、村はにわかに騒々しくなったようだ。
対馬の鯨組でもっとも成功したのが、後に「鯨亀谷」ともよばれる亀谷卯右衛門経営の鯨組だ。彼は島内3ヵ所に鯨納屋を置き、春に西海岸沿岸を北上する鯨を捕り、秋に島の東を南下する鯨を狙った。芦ヶ浦には秋納屋が置かれた。
1847年11月から翌年2月まで赴任した芦ヶ浦鯨奉行の『鯨日記』によると、その期間中にこの浦の沖で発見できた鯨は合計30頭。捕獲できたのは6頭だった。3ヵ所合わせて40頭を捕っていた最盛期に比べると少ないようだ。
雷浦には往時の石垣が残されている
鯨組の衰退
この翌年の1848年にはアメリカの捕鯨船がオホーツク海、ベーリング海で操業をはじめ、日本近海にも姿を見せるようになる。近代捕鯨の始まりだ。鯨の乱獲が進み、対馬近海には鯨が来なくなった。そして、その船団への燃料、食料、飲料水の補給地を求め、1853年にはペリーが黒船に乗ってやってきた。
雷浦には鯨組墓がある。そして、地福寺の境内には鯨組の供養碑が建ち、彼岸には村の人によって供養が続けられているという。
移住者を受け入れやすい村か
1952年(昭和27年)に淡路島から漁民団が移住。約30隻、80人の大移動で、NHK大阪が移住状況を放送した。ほとんどがイカ漁従事者で、当時対馬はイカ漁で沸いていた。しかし、イカが釣れなくなると徐々に淡路島に戻り、2020年現在、嫁にいった女性一人を残し、最後の家も淡路島に帰ったという。
また、昭和の後半には韓国から潜水漁を行う漁師たちが、在日韓国人として30世帯ほど住んでいたらしい。それも平成に変わった頃、獲れなくなったので韓国に帰ったそうだ。
芦浦はおそらく対馬で最も細長い村ではないだろうか。海岸が2.7kmもある。家と家が離れるので干渉されず気楽に暮らせるからか、移住者にとっては住みやすいのかも知れない。島原や天草からの移住者も多い。
しかし、最近の漁獲量の激減は大問題だ。船はあっても漁に出る機会が少ないという。
2015年の国勢調査では55戸で138人。人口の減少に比べれば、戸数の減りは少ないが、少子高齢化は確実に進んでいる。
イカ漁の船(2003年)
【地名の由来】紫瀬戸の住吉神社の屋根を葺くのに、この浦の芦を使ったところから、芦浦と呼ばれるようになった、といわれている。
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