対馬全カタログ「村落」
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2020年7月29日更新
峰町
吉田
【よしだ】
対馬には珍しい
里山の景色と
縄文遺跡と蛇瀬伝説
のどかな農村の風景
 三根湾の枝浦である吉田浦から南東に広がるこの地区は、対馬では珍しく水田が多い。かつては峰郷の在庁だった朽木氏が村落領主だったためか「朽木」と称としたが、1330年頃に朽木氏の血統が絶え、その約300年後に「吉田」と呼ばれるようになったそうだ。その経緯はわかっていない。
 吉田は海に接しているが家屋は海辺から遠く、しかも密集していない。そこには農村ののどかさがあり、陸路も早くから仁位方面と三根方面に開かれていた。元禄時代の郷村帳によると、66戸もありながら船は2艘だけ。これも対馬では珍しい。
のどかさ漂う秋の稲刈り風景
縄文中期~弥生後期だが、縄文後期がない
 1953年(昭和28年)にはじめて調査が行われた吉田貝塚では、厚さ30cm直径3~4mの貝層から、カキの殻とともに縄文晩期から弥生早期にかけてつくられた土器が発掘された。さらにその下から縄文中期の土器と打製石斧も出土。後期のものがなく、その不連続が問題視されたまま、国道382号線の開通により貝塚はほぼ削り取られてしまった。
 1975年(昭和50年)にこの貝塚のさらに上側が発掘調査され、縄文中期と晩期の土器が出土。中期の層からはイノシシの土偶なども出たが、やはり後期のものは発見できなかった。ふたつの遺跡とも現在の水際より500mほど内陸。当時の入江はその辺までだったのだろう。
 現在の海辺の近くには恵比須山西遺跡がある。恵比須山は水田に囲まれた大きな古墳のようだが、古代は海の中の小島だ。石棺の中や周囲からは、数多くの副葬品とともに弥生後期の土器、伽耶系の陶質土器が発見された。
恵比寿山西遺跡の石棺
蛇瀬(じゃぜ)伝説
 吉田浦の真ん中から少し南にずれた辺りに蛇瀬と呼ばれる岩礁がある。ここに大蛇がいて、3月3日に村一番の娘を襲いに来る。そこで真っ赤にいこった炭の入った火桶をわら人形に仕込んで着物を着せ、蛇瀬の上に置き、大蛇に呑み込ませた。体の中で火桶が割れ、腸が煮えくり返り狂乱したところを射たれて息絶えた。という八岐大蛇(やまたのおろち)的な昔話があった。
 その後に、その矢を射たのが宗澄茂という武勇伝説に変わったりしたようだが、かつてこの地にいた古代豪族の祭祀に、この伝説の原形があったと考えられている。
蛇瀬
『吉田村落史』が語る江戸期の開発
 吉田は多くの家屋が海から離れているが、それが干拓によるものであることを、この地区だけの歴史をまとめた『吉田村落史』(龍造寺辰馬氏編著)が教えてくれる。そこには対馬の一集落の開発の歴史が具体的に記されている。
 開発には2種類あり、海や川などを埋め立てで干拓することを「開き(ひらき)」、荒地を開墾することを「発し(おこし)」  といった。勝手に開発することはできず、いずれも藩に出願し、藩は出願者の工事能力等を検討して完遂可能と判断できれば許可を出した。        
 原則として開きは10年、発しは5年で、それぞれ事情等に応じて5年の延長は認められた。そして開発が成就した場合は、開発者が耕作の権利を得る。もし期限内に完成すれば期限までの収穫はすべて開発者のものとなった。
 『吉田村落史』には主な開発として、「開き」20例、「発し」2例が載っている。中には期限内に成就できず(ずるずる延長したのか、半世紀後に)取り上げられたもの。出願者が継続できなくなり、他人に譲った事案。親子2代で取り組み目標面積にとどかなかったが、藩は無償で息子に払い下げた事案など、いろいろあり、当時の農民の暮らしが垣間見えてくる。
【地名の由来】 旧号「朽木」。1633年(寛永10年)から「吉田」となる。由来は「葦田」か「良し田」か。
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