対馬全カタログ「村落」
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2024年5月7日更新
豊玉町
横浦
【よこうら】
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オロシカ湾四ヵ浦の一つ。
かつて村換えの歴史をもち
団結心が村のプライド
広大な領地を有した横浦
 横浦はオロシカ湾四ヵ浦(シカウラ)の中で、最も湾の奥にあり、北東に延びる半島すべて(下の「オロシカ湾周辺地図」の半島部はすべて)が領地だった。現在も塩浜地区、見世浦地区は横浦の行政区画内の1地区で、住所は「横浦○○番」となる。
 エリアが広いからだろうか、過去にさまざまな出来事があり、『豊玉町誌』でも横浦の地誌だけで22ページを割いている。
 現在は埋め立てによって陸地と繋がってしまったが、かつては小さな島だった元島で古墳時代の石棺が発見されている。遺物が少なく詳しいことはわからないという。横浦と繋がりがあるかも不明だ。
 1571年の朝鮮の書『海東諸国紀』では横浦の戸数は20余戸となっているが、ほとんどの村が少し多めに書かれているというのが定説だ。
オロシカ湾周辺地図  出典:国土地理院地形図(地名拡大等)
横浦周辺地図  出典:国土地理院地形図(地名拡大、名所追加)、長崎県遺跡地図
中世の横浦はやはり“塩”だったのか
 『海東諸国紀』に書かれているように、中世の対馬は、魚と塩と交易の島だった。室町前期、浅茅湾と西海岸の村のいくつかは倭寇と交易で繁栄し、後期、佐賀を中心とするエリアは朝鮮との貿易で潤っていた。
 その頃、東海岸でも佐賀経済圏から外れた横浦では何が行われていたのだろうか。そこで注目すべきは「塩浜」の存在だ。
 「塩浜」と地名にするくらいだから、そこでは竃で海水を煮立てるだけでなく、広い砂地に海水を蒔いて太陽光の熱と風の力で塩分濃度を高めていく塩田方式をとっていたと考えられ、またそのために山陰になることが多い横浦ではなく、日差しの豊富な塩浜の地を選んだとも推測できる。
 塩浜に関する史料がまったくないところから、あくまでも想像だが、横浦の人たちは獲れた魚といっしょに塩浜でとれた塩を九州方面に、ある時は直接自分たちで、ある時は廻船業者を通して移出していたのではないだろうか。
海賊退治の功により横浦の給人へ
 1471年(文明3年)、島主であった宗貞国が筑前にあり、島内に兵が少ない時に、鈴木太一という輩が兵を集め賀谷の西の中岳を拠点として、賀谷村を占拠。その暴挙を鎮めるべく宗四郎が鈴木を矢で射た。さらに逃亡するところを、釣りに来ていた横浦の人が仕留めたという。
 仕留めた場所がたまたま賀谷の横瀬と呼ばれる瀬だったので、その功により横瀬と名乗ることを許され、横浦に知行を得た。つまり給人となった。
 横浦の元の地名が「横瀬浦」で、賀谷の“横瀬”で功を上げ、賜った姓が「横瀬」。なんとも不思議な巡り合わせだ。横瀬の住人だから「横瀬」になったのではないかと勘ぐってしまうが。
元禄の頃は、一人1日=1.1合の麦
 漁業と交易が禁止された農本主義の江戸時代、村々は大きな転換を迫られた。平地の少ない対馬でどのようにして食糧を得、年貢を納めるか。そのために、耕せるところはすべて耕し、種を蒔けるところはすべて蒔く。さらに埋め立てる技術があれば埋め立てて平地を増やし、生産量を増やす。
 江戸時代、最初の100年はその戦いだった。その結果が1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』のデータだ。物成(年貢)か収穫量を計算すると80石。農民の食糧はその1/3ほどで、それを人口(10歳以上)で割ると、一人1年間で0.4石、1日1.1合となる。※ 対馬の郷村平均が0.48石、1.3合だから、平均よりも2割弱少ない、厳しい食糧事情だ。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約20石、戸数15、人口(10歳以上)66、神社1、寺1、給人1、公役人11、肝煎1、猟師8、牛7、馬0、船10

※対馬藩の「物成(年貢)」は収穫量の1/4だが、それ以外に金銭で納める税金「公役銀」を工面するために麦などを売る必要があり、その他の支出も考慮すると、食糧として農民に残るのは収穫量の1/3くらいと考えられている。村によって多少事情が異なるのであくまでも計算値、目安と理解してほしい。
160年で米麦1.9倍、家数1.8倍、人口は1.6倍
 暮らしを少しでも楽にしようと、横浦の人々は付近の浦々を開き、木庭を広げて種を蒔き、収穫を増やそうとしたに違いなかった。その甲斐あって160年後の文久年間には、米麦の生産量は約1.9倍に。それに伴い、家数は1.8倍、人口は約1.6倍(10歳以下含まず)に増えた。
 この160年間の家数と人口の増加率は対馬ではおそらく1位か2位。人口が増えた分、一人当たりにすると、1年間で0.47合、1日1.2合と、上昇はわずかだったが、孝行芋が食糧事情を大きく改善してくれたはずだ。

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦151石、家27、人口133、男54、女53、10歳以下26、牛19、馬9、孝行芋1,700俵 
幕末期に、村換え直訴事件
 1865年(慶応元年)、給人と農民の間で抗争があり、農民が直訴するという事件が起こった。原因は、給人横瀬家からの過度の賦役ということらしい。それからの解放を求めて、村ごと移転を願い出たと言われている。
 建白書の草案を作成したのが、横瀬家当主の弟であるところから、村民全員の嘆願であったことが推し量られる。
  直訴した4人は2年後に奴刑に処されたが、訴えは聞き入れられ、1867年(慶応3年)に東の元横浦から現在の地(口細浦、小ひけ浦、大ひけ浦)に村換えになった。元横浦には給人家以外1戸も残らなかったそうだ。
 4人の処分は永年拝領奴だったが、4年後の明治2年に赦免されたという。そして、この一件が村の団結力を高めることになったのかも知れない。
元横浦の旧祭地(2021年撮影)
採藻による収入は村の福利厚生に
 横浦産の和布(ワカメ)は名産品と名高く、江戸時代、藩への初物献上品として久田のイチゴとともに高ランクを維持してきた。
 さらにヒジキもワカメと並ぶ地区の特産品だったが、両方とも2010年代前半から採れなくなったという。ちょうど磯焼けが問題になりはじめた頃だ。その5年ほど前にはヒジキが豊漁で、横浦の村で500万円も売り上げたという。
 ヒジキ切り(ヒジキ採り)による収入は村の収入として蓄えていたが、その年は各戸1名参加の村内旅行を行ったそうだ。柳川温泉などを巡る北九州旅行で、ことのほか楽しかったようで、今でも年寄りたちの語り草になっているようだ。
舟グローも、亥ノ子ぶりも、盆踊りも、終わった
 取材を受けてもらった区長が言うには、横浦の特徴は「団結心」だという。何かをやろうとするとすぐに「皆でやろう」とまとまるそうだ。和多都美神社例大祭の舟グローも、横浦は氏子でないのに長く参加してきたのも、その団結心からだと言う。
 横浦には舟グロー船が2艘ある。昭和20年代に造られた村船だが、FRPを貼りながら使い続けてきたという。2000年頃に舟グローにピリオドを打ってからはヒジキ切り用の船として使ってきたが、ヒジキも穫れなくなり、現在は陸に揚げられブルーシートをかぶっている。痛みが激しく、再利用は難しそうだ。
 11月の亥の日に子供たちが村の各家を回りながら豊饒を願う「亥ノ子ぶり」は、かつては対馬のほとんどの村で行われていた秋の恒例行事。オロシカ湾周辺では男子も女子も参加した。横浦では、長く使えるようにと特注で道具をつくったものの、子供が少なくなり、1995年くらいからやっていないそうだ。
横浦地区でつくった亥ノ子ぶりの道具:3方のロープを子供たちが持ち、真ん中の重しを上げ下げして地面を打つ
 盆踊りは1970年までになくなったという。一度復活をめざして1995年に踊られたが、それ以後は映像記録を残すために踊られただけだった。
 現在残っている行事は、能理刀神社祭と恵比寿神社祭。どちらも家の代表が参加し、神主に祝詞をあげてもらう神事だけが行われる。それでも全戸参加は当たり前に守られ続けているという。
能理刀神社
「豊玉の猪垣」と長崎牧
 横浦から東へ直線距離で1kmほどの山の中に、用途不明の石垣がある。長さ約240m、高さは1.1m、上幅0.6m、根幅1.2mで、一部石垣が崩れかけている所はあるものの保存状態は良い。
 長らく対馬では江戸時代に全島をあげて行われた猪狩りのための石垣と信じられてきた。名称も「猪垣(いがき)」となり、今でもその名が通用している。
 猪狩りは陶山訥庵の企画・総指揮で行われた対馬藩最大のプロジェクト。農作物に被害を及ぼす猪を対馬から一掃するために、9年かけて北から南に徐々に猪を追い詰めたが、その追い詰めに必要な壁は敷設の容易な木柵がベスト。恒久性が高く、たいへんな労力を必要とする石垣は不要だ。
 また、島内に似たような石垣がないこともあり、この石垣は中世から近世にかけて対州馬を放牧した「長崎牧(ながさきまき)」関係の遺構で、1690年頃に放牧場が縮小され、長崎が牧の範囲から外された際に、馬が長崎の方に行くのを防ぐために築かれた石垣ではないかと考えられている。
豊玉の猪垣(2022年)
【地名の由来】 いつの頃までかは明確ではないが、かつては“横瀬”という瀬があり、村の名を「横瀬」、浦名を「横瀬浦」と言ったが、「瀬」を省略し、省略した浦名が村名になり「横浦」となったそうだ。1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』で既に「要古浦(横浦)」となっているが、1543年(天文12年)の文書では「横瀬浦」となっているので、中世後期は正式には「横瀬浦」だが、通称は「横浦」だったのではないかと想像できる。
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