2020年7月12日更新
上対馬町
鰐浦
【わにうら】
北端の村は
時を超えて
美しい漁村だった
ヒトツバタゴの白い花の咲く頃に
対馬最北端の鰐浦は、釜山まで53キロメートルと韓国にもっとも近い村のひとつ。古より天然の良港として知られ、『日本書紀』神功皇后の三韓征伐の記述の中にも「和珥津(わにのつ)」として登場。中世には一時さびれたが、江戸時代には朝鮮への渡航地として関所が置かれ、御関所村として繁栄した。しかし1672年(寛文12年)に佐須奈に関所が置かれると、また徐々に陰りが見えてくるのだが。
海岸近くには食料や衣類、家具、漁具などを保管する小屋が並び、「倉屋敷」と呼ばれる。5月には天然記念物のヒトツバタゴの白い花が山肌を飾り、古と変わらぬ初夏の彩りを楽しませてくれる。
鰐浦のゴールデンウィークは新緑と白い花の共演
「海七山三」 の村
三方を山に迫られ、田も畑も他の集落に比べると極端に少ないが、地先の海は豊かな漁場で、対馬では珍しい漁民の村だ。江戸時代にイルカ漁の権利を持っていた海士以外では、唯一鰐浦の漁師だけが、豊崎郡に限ってだが、イルカ取りの突き役を許された。
鰐浦の経済は昔から「海七山三」と言われてきたが、山といっても林業ではなく焼畑農業。明治時代に山林の私有化が公認されると、その利用権をめぐり士族と平民階級の間で裁判沙汰に発展したほど、"山"は村人にとって死活問題だった。二審で平民側が勝訴し、その結果、沿岸漁業権と山林利用権は士族と平民が共有することになった。
貧富の差が少ない、平等の気風
この訴訟事件は明治時代、しかも対馬では非常に稀なケースだった。その理由に、長い間この村が貧富の差が少なく、隷属百姓をつくらない、独自の気風があったようだ。だからこそ士族だけに富を集中することに対して平民が物申すことができたのではないだろうか。1985年(昭和60年)発行の『上対馬町誌』に、この村の美点として平等の気風が詳しく述べられている。
1700年(元禄17年)の『対州郷村帳』によると、鰐浦は家数62戸のうち、給人13戸、公役人24戸となっており、給人の多いのが目を引く。おそらく公役人も給人の家譜に連なる家ではないだろうか。それも貧富の差の少なさ、独自の気風の一要因のような気がする。
「焼け誕生」から76年
狭い平地に約70戸と、さらに1戸当たり平均3棟の小屋を持っており、建物が密集している。それが仇となり、ひと度火が出ると大火になりやすい。1750年(寛延3年)2月14日に43軒焼失、1791年(寛政3年)過半数焼失、1811年(文化8年)にも大火を経験。その復興のために、ブリ網敷き入れ許可、干しワカメの朝鮮輸出許可、鯨組の誘致などの権益を受け、かえって経済的に潤ったとも言われている。
最後の火災が、1943年(昭和18年)1月1日。17軒が焼失。この日を「焼け誕生」として防火の戒めとしている。また、正月に餅をつけば村に火災有りという言い伝えに従い、江戸時代から続く「餅なし正月」の風習を守り、どの家も正月の餅はつかないという。
火災から家財を守るため倉庫は海側に集められた
鰐場は、対馬最北の鯨納屋
江戸初期から中期にかけて、対馬の北の方で活躍した鯨組があった。その当時の郡名を冠して「豊崎鯨組」と一括される彼らだが、経営者別に「福山組」「服部組」「土肥組」「阿比留組」などあり、実際の操業は島外の鯨船がおこなった。
鰐浦西側の浦にも納屋がつくられ、そこは鰐場と呼ばれた。操業期間は寛文年間から文化年間、西暦でいうと1670年頃から1800年頃まで。さまざまな鯨組が入れ替わり、その盛衰史を綴った。現在、鰐場に開かれた畑には納屋に使われたと思われる石があり、西側の椿の林の中には、鯨組の墓(石碑12基、石積み14基)がある。
鰐場の裏山には鯨組の墓が並ぶ
【地名の由来】 鰐はかつて船や水夫を意味した。その港ということからか。あるいは、海神の正体(トーテム)ともいえる鰐に因んだのか。または、大和朝廷の水路管理者である和邇氏が住んだからなのか等、諸説ある。
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