対馬全カタログ「村落」
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2020年8月1日更新
上対馬町
【とよ】
島主との因縁が深い
かつての北の主邑
海の豪族の拠点か
 豊は、島の北端部にあり、韓国との通行には有利な位置にある。「豊」という地名から、山口県豊浦郡と、かつて「豊の国」と呼ばれた北九州とを関連付け、古代に朝鮮半島と北九州、本州西端部に囲まれた海域で活動した豪族の拠点のひとつとする説もある。湾の東岸には弥生から古墳時代にかけての石棺群の跡。弥生式土器のほかに韓国系の金海式土器も発掘されており、その説の根拠となっている。
 この村は、対馬では珍しく広い耕地を有する農村的色彩の強い村だが、そのほとんどは江戸時代後期の大干拓によるものだという。つまり、それ以前は土地がなかった。だから富を外に求めた。その交易力こそがこの村のベースをつくってきたということだろうか。
豊川もこの辺りは100%人工河川
豊と対馬島主
 室町時代の中ごろ(1440年頃)に豊崎郡が設けられ、豊が郡府となった。その初代郡主は第8代島主・宗貞盛の弟、宗盛国。その後、第9代島主に嫡子がなかったので、第10代は盛国の子・貞国がなった。貞国は1484年(文明18年)に、78年間続いた佐賀島府を廃して、現在の厳原(当時の国府)に屋形を移すなど、大胆な改革を行い、その後の島政の基礎をつくった。
 さらに貞国のあと、11代、12代、13代と、彼の子、孫、曾孫が島主をつなぐが、そこで家系が絶え、今度は豊崎郡主を継いだ貞国の兄・宗盛俊の孫である将盛が第14代島主に。しかし、彼の治世は乱れ、ついには1539年(天文8年)に家臣によって故郷である豊へ送り帰されてしまう羽目に。将盛はこの地に屋形をつくり、そこで4男3女をもうける。そして結局は、豊で育った将盛の子供たちが17代、18代、19代を務め、現在に続く宗氏の主流となるに至っている。
戸数激減の謎
 1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には豊は家数40余戸と記されている。もちろんこれは正確な数字ではないが、その頃の対馬では中規模の村だったようだ。16世紀後半(天正の頃)には51戸。1717年(享保2年)には66戸、1731年(享保16年)には75戸にも達するが、その15年後の1746年(延享3年)には43戸と激減している。別家隠居を減らすという藩の方針による戸数減少もあるが、別の理由もあるようだ。
 朝鮮との交易によって藩の財政を築いてきた対馬藩は、当然のように密貿易を禁止した。密貿易者は「潜商」と呼ばれ、見つかると死罪や奴婢の刑に処せられた。豊では百姓の潜商14戸がつぶれ40人程減ったという。
 さらに慢性の食料不足に苦しんでいる島ゆえ、人口の増加は避けなければならず、島外からの居住を抑制した。1706年(宝永3年)に藩は旅人吟味役を設け、他国者を次々と送還していったが、潜商および他国者の取締りが厳しくなると逃亡者が増え、それが豊の人口を減らす一因になったとも考えられている。
豊といえば、砲台だ
 1934年(昭和9年)に完成した豊砲台は、世界軍縮会議のとりきめで廃艦となった戦艦(赤城、長門、土佐の3説あり)の主砲を据え付けた、対馬本島最北の砲台。当時は世界最大といわれた2連式40.6㎝カノン砲を備えたが、実戦に使われることがないまま終戦を迎えた。 
 砲台入口の照明スイッチを押すとライトが30分間点灯し、砲座・砲具庫・巻揚機室などの内部をゆっくり観察できる。地下室の天井や壁は厚さ2m超の鉄筋コンクリート造。砲塔部は3m超の擁壁で保護されているそうだ。
 太平洋戦争当時、対馬には豊砲台をはじめ13の砲台が存在し、対馬要塞を構成。対馬海峡、朝鮮海峡ににらみを利かした。その威力は世界に知られ、大戦時に日本海側の都市への艦砲射撃による被害がなかったのは、対馬要塞の抑止力が大きかったため、と言われている。
砲座を外から見下ろす
今は砲座の周りも草木が茂る
【地名の由来】 ①「とよ」は「とび」の訛で、飛ぶは昔船出の意。「飛崎(とびさき)」が「豊崎」になり、それを略して「豊」になったという説。② 豊玉媛の「豊」からという説。
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