対馬全カタログ「村落」
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2023年1月18日
上対馬町
唐舟志
【とうじゅうし】
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チャレンジ精神旺盛という
この村の気風、伝統を
次の時代に活かせるか
朝鮮半島との交流に適したロケーション
 唐舟志周辺は複雑な地形をしている。それが幸いして、風波を避けるには格好の入江が多い。古代から対馬北東エリアでは西泊が主邑として栄えていたが、その周辺にもさまざまなグループがいたようだ。
 津和浦に突き出した岬で古墳時代(5世紀末~6世紀初頭)の墳墓11基が発見され(コフノサエ遺跡)、中からは日本の土器(須恵器・土師器)と朝鮮半島の土器が各種・各時期(伽耶・百済・新羅)にわたり出土した。
 また、昭和初期の調査で、この遺跡の近くの畑から広形銅矛が出土。弥生時代から古墳時代にかけて津和浦を拠点に活動していた一団がいたことを伝えている。
唐舟志周辺地形図    出典:国土地理院地形図(村名拡大)
コフノサエ遺跡でもっとも岬の先端部に近い墳墓2基
かつて「唐郡」という郡があった
 1438年(永享10年)5月15日付け、宗盛国発行の安堵状に「対馬島とう郡当しゅうし(唐舟志)の・・畠地」が登場する。
 また、朝鮮王朝の記録『成宗実録』には、盛国の子・宗盛俊が自らを「豊唐二郡太守」と称していると書かれている。二郡の一つは豊崎郡だから、もう一つは「唐郡」となる。
 他の資料も調べると、少なくとも1438年から1478年までの40年間は、「唐郡」の存在が確認できるという。
 そして、その「唐郡」に属していた村として記録されているのは唐舟志だけだった。「唐郡」成立の経緯はわからないが、唐舟志の人たちが豊崎郡に入るのを拒んだということだろうか。
 そのような一大勢力でありながら、朝鮮高官による15世紀の日本探訪記『海東諸国紀』(1471年)には載っていないのが不思議だ。
村づくり糸瀬氏主導か!?
 地形的に見て、ここが風波を避けるには有用な場所だったことは理解できるが、家を建てる土地、耕作する土地がほとんどなかった。人が定住するには開墾、干拓しなければならず、そのための土木技術と道具の普及が必要だった。
 その機が熟したのは鎌倉時代から室町時代にかけて。鋤・鍬が普及し、全国的には新しい村づくりの気運が高まり、それが対馬にも伝わってきたと考えられないだろうか。
 唐舟志の場合、元禄時代の給人4家のうちの3家(すべて糸瀬氏)が安土桃山時代以前からの侍であったことから推測すると、村づくりのリーダーは武士だった。「唐郡」を島主に認めさせる、それなりの力のある武士団だったはずだ。
 元寇以後、国土防衛のために多くの武士が対馬に派遣され、対馬に一挙に武士が増えた。そして、自らの拠点として朝鮮との交易に有利な浦に村をつくった。唐舟志もそういう村だったのではないだろうか。
埋め立てたり、山を掘削して切り通しをつくったりしたので、今は平地も多くなった。
朝鮮交易から農業へ
 朝鮮との私貿易が禁止された江戸時代、唐舟志はどのような村だったのか。下の二つのデータを見てみると、元禄時代は戸数21に対し給人4と、給人の割合が多いのに気付く。これは豊崎郡(現在の上対馬町エリア)伊奈郡・佐護郡(上県町エリア)全般に言えることで、朝鮮交易に地の利があったことと大いに関係しているようだ。
 また、この平地のない村に、物成(年貢)41石とは多い。生産高は41石×4=164石もある。さらに約160年後には、90石も増えている。ほとんどが木庭作(焼畑農業)だろうが、孝行芋(サツマイモ)も1,600俵としっかり収獲している。畑にできそうなところはすべて畑にしたのだろう。
 元禄時代に馬が0で、船が9というのも、どことも道でつながっていない唐舟志らしいが、文久の頃には、牛が9頭→22頭に増え、馬が20頭と大幅に増えている。馬の20頭は木庭作で山の斜面で荷を運ぶためだろうが、人と馬が通るくらいの道はできていたのかも知れない。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約41石、戸数21、人口90、神社1、寺1、
給人4、公役人11、肝煎1、猟師5、牛8、馬0、船9

文久元年(1861年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦254石、家23、人口138、男52、女67、
10歳以下19、牛22、馬20、孝行芋1,600俵
豊かな漁場に恵まれ、チャレンジ精神を刺激され
 江戸時代、漁業にさまざまな制限を加えた対馬藩が、明治5年の廃藩置県で消滅。漁業(釣漁)が自由化されると島外からの入漁が盛んになり、戸数20戸ほどの唐舟志にも約50人の寄留者がいた時期があったそうだ。
 唐舟志では定置網漁が盛んになり、この小さな部落に企業が3社も設立された。対馬のこのサイズの村としてはかなり希有な例で、2社は移住した島外出身者(寄留)による起業だが、1社は地元出身者3名による共同経営だった。
 積極的に投資を行う寄留の思い切りの良さに比べ、失わないことを優先する対馬人の消極性はよく言われることだが、唐舟志においては必ずしもそうではなかった。
 村にチャレンジ精神を醸成する空気があったからかも知れない。かつて佐須奈の網主が網漁を始める際に唐舟志から船子を雇ったり、唐舟志で船子を雇いイカの定置網漁で成功した人がいたり、その他にもいろいろあるが、新しい事業への垣根が低かったこともプラスに働いたかも知れない。
缶詰工場とボタン工場
 唐舟志では1918年(大正7年)に缶詰事業がスタートした。済州島の海女を10人ほど雇い、サザエ、アワビを採取させ、夏場だけ操業した。月産は300缶ほど。従業員は海女以外は6人だったそうだ。戦後、缶詰工場は1950年(昭和25年)に操業を再開し、その後数年間(「町誌」では昭和35年まで)操業して廃業となった。
 この缶詰工場が捨てた貝殻を活用すべく、1935年(昭和10年)にボタン製造事業もスタートした。朝鮮出身の職人を1人雇い、唐舟志の女性6人、上県町佐護の女性3人で工場を動かした。 
 缶詰工場、ボタン工場とも、粗末なバラック建てだったらしいが、小さな部落に2つの工場が並び建ったというのは、対馬ではかなり異例のことだ。しかも、工場の創設者はいずれも地元出身者。異例中の異例と言ってもいい。
 しかし、その後このような起業の話題は聞くこともなく、広い産業誘致用の敷地がグランドと化している近年だ。
小さな村にしてはかなり広い産業誘致用地は、期待の表れかも知れない。
宮本常一の期待
 缶詰工場が操業を再開した1950年(昭和25年)の夏、八学会の対馬調査で上島を取材していた民俗学者・宮本常一が、唐舟志を訪れた。そのことが彼の著書『私の日本地図 壱岐・対馬紀行』に書かれている。
 珍しく宮本が1カ所に2泊し、2泊目は唐舟志の人たちの求めに応じ、夜遅くまで島の将来、村の将来のことなどついて語り合ったそうだ。20名ほど集まり、酒を酌み交わし、心を開いて語り合ったとある。
 唐舟志はかつて伊勢講が盛んで、3年か5年に一度、くじで参る人を選び、お伊勢参りを続けていた。戦前や戦後すぐの頃の話だ。金もいるし、時間もいるし、苦労もあるが、外の世界を知ること大切さを村人が共有していたからできたとも言えるだろう。
 本の中でそのことに触れたあと、唐舟志の段のくくりとして「島の一隅にひっそりしている村なのだが、海を通じて広い世界につながっているのである」と宮本は結んだ。それは宮本の願いでもあったに違いない。
広く平らな瀬を前に立つ鳥居は金比羅様の鳥居。映えスポットとして人気が出つつある。
【地名の由来】 この強そうな村名の由来は、4説もあるが、浦奥の舟志を意識しているのは確かだろう。それであれば、東の舟志として→東(とう)舟志→唐舟志、ではないだろうか。
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