対馬全カタログ「村落」
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2024年2月11日更新
上対馬町
冨浦
【とみがうら】
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かつてはその名のごとく
豊饒な海に恵まれた村も
磯焼けで漁獲が縮小
付近でもっとも海に近い村
 現在の対馬市上対馬町域の北東エリアで、最も海に近い村が冨浦だ。海に近く、入江が東に開いているので、東からの風波を避けるには決して利のある地ではなく、貿易には適していない。
 平地も少ないので農業にも適地とはいえないが、焼畑農業ができる山の斜面は十分にあった。そして何より外洋に接しているので、漁場まで近い。
 以上が冨浦の地理的情報だが、江戸時代に対馬藩は農業を主体にした農本主義を徹底させようとした。それはこの村にはかなりの重荷ではあったが、なんとか適応しながら乗り切ってきた。
 現在は道路が整備され、比田勝からは車で15分程度。途中、運転で緊張する箇所もなく、車さえあれば生活しやすい村になったが、人口は激減した。
(2021年撮影)
冨浦周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名拡大/遺跡名等追加)、長崎県遺跡地図
江戸時代の変化を記録で追うと・・・
1471年に編纂された朝鮮の書『海東諸国記』には、冨浦は10余戸となっているが、もともとこの村には5軒の原住戸があったと伝えられている。
 江戸時代初期に給人が1家入ったことが「分限帳」に記されており、さらに1696年(元禄9年)、浜玖須近くの島ノ浦の人々の嘆願を藩が聞き入れ、島ノ浦を廃村とし、人々の多く(立花家4軒)は冨浦に移住した。
 その4年後の1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』には戸数15軒となっているところから、元の冨浦の家数は11軒ということになり、公役人7人の内訳は、原住戸の5人と島ノ浦からの2人ということだろうか。
 藩が移住を許したということは、冨浦にそれを受け入れるだけの余地があり、農業的な伸び代があると思われていた。つまりまだ開発できる土地があると藩が判断したということだろう。
 1811年(文化8年)に舟志から給人阿比留家が1軒入り給人家は3軒に。幕末期の1861年(文久元年)には家数は13軒だった。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約22石、戸数15、人口45、神社1、寺1、
給人1、公役人7、肝煎1、猟師3、牛6、馬?、船4 

1838年(天保9年)『六郷奉役中御答書』(出典:『上対馬町誌』)
高2間2尺寸、物成麦14石6斗、家数12、人口77、男31、女34、子供12、神社1、寺1、給人3、公役人11、牛10,馬5,船12(給人と公役人を足せば「14」となり、家数を超えるのが理解不能だが。家数あるいは公役人数の誤記か?)

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦124石、家13、人口70、男28、女35、
10歳以下7、牛11、馬9、孝行芋995俵 
半農半漁の村
 『元禄郷村帳』のデータをもとに計算すると、年貢が22石なら、米麦の収穫量は88石。村に残るのは66石で、そこから公役銀やさまざまな支出を差し引くと、29石がこの村の食糧となり、一人当たり(11歳以上)0.64石※。対馬としては平均的な数字だ。
 1838年の物成麦14.6石という激しい落ち込みは、おそらく天候不良による飢饉かなにかがあったのだろう。
 1861年には収穫量が124石と、元禄時代の1.4倍になっている。しかし一人当たり(11歳以上)に換算すると、0.65石。元禄の頃とほとんど変化はない。当時としては平均以下だ。
 しかし、『六郷奉役中御答書』(天保9年)のデータから考察すると、ほとんどの公役人の家(12戸)が、船(12艘)も使えば、牛(10頭)も使っていたと考えていいようだ。牛を飼い、船を所有する余裕があり、時期に応じて農民にもなれば漁民にもなる。冨浦はそんな村だったのではないだろうか。つまり、冨浦は、穫れる麦は対馬の平均的な量だったが、海の恵みが多かった。
 明治時代のデータだが、冨浦の海の恵みは、スルメ200斤=120kg、イリコ60斤=36kg、干しワカメ1,200斤=720kg、ウニ2斗=36Lなどだった。

※対馬藩の「物成(年貢)」は収穫量の1/4だが、それ以外に金銭で納める税金「公役銀」などがあり、それを工面するために麦などを売る必要があり、その他の支出も考慮すると、農民に食糧として残るのは収穫量の1/3くらいと考えられている。
すぐ沖が豊かな漁場
 富浦について、今一つ特記すべきことは、浦の内外の岩礁には海藻も豊富で、豊かな貝類やウニの漁場になっていることである。かつて多い時は毎日ではないが、1日に40万円、50万円も稼げたという。
 現在は磯焼けでウニもサザエも激減してしまったが、かつては海底の岩礁という岩礁にムラサキウニがほとんど2、30センチ間隔に群棲していたという。餌も豊富だから中もしっかり詰まっていたそうだ。
 冨浦ではサザエを採るのに「サザエ網」を使っていた。サザエが夜に移動する習性を利用する漁法で、夕方に網を仕掛け、翌朝上げると網にサザエが引っかかっているという。
 「ミズイカ釣り」も盛んだった。漁に夢中になり日が暮れても帰ってこないので、陸から懐中電灯で「急いで帰れ」の信号を送ったりしたそうだ。
最も外側の堤防は平成元年に東京に陳情に行った、その成果だという
かつては一村で漁協を経営
 豊富な水産資源と収穫量をバックに、冨浦は1935年(昭和10年)頃に単立の漁業組合を経営 。各戸に配当される金額の中から天引き積み立てを継続 し、多額の資金を保持していた。
 1949年(昭和24年)、漁業法改正による県からの働きかけで富ケ浦の漁業組合は豊崎漁業協同組合に吸収合併。その時、冨浦の漁協資金の使途をめぐって大いにもめたそうだ。結局、富浦の護岸工事に使うということで折り合いがついたが、現在の港の防波堤はこの資金によって作られた。
最も古い防波堤の先にある石柱は、目印でもあり記念碑でもある。以前は白いペンキが塗られていたが、現在はほとんど剥げ落ちている
磯焼けと人口減少
 現在は温暖化が主原因か、磯焼けによって海藻類が激減。商品価値のあるテングサやカジメも減り、海藻を餌にしていたアワビも激減したという。 冨浦の海の恵みは縮小され、その影響だろうか、人口が激減した。
 2010年(平成22年)はまだ世帯数14 戸/人口37人だったが、2015年(平成27年)には世帯数7戸/人口19人と、5年で世帯数/人口とも半減してしまった。住民の高齢化もあるだろうが、冨浦での営みに見切りを付けたということだろうか。
特産品はワカメ
 そんな中、現在1軒だけだが、ワカメ養殖を行っている家がある。今では数少ない冨浦の特産品だ。
 種子を島外から買い、和布蕪(めかぶ)に育成。その和布蕪を海水を張った水槽に入れ、そこにガラス板に紐を巻いたものを浸けておくと、その紐に胞子が付着し種苗糸ができるという。
 この糸を浮き球に張った養殖綱に巻き海中に沈めておくと、そこでワカメが成長。収穫期は2月~3月で、収穫には村の人や知り合いが手伝いに来てくれる。にぎやかで会話もはずみ、皆がその時を楽しみにしているそうだ。
ワカメの種苗糸づくり
その他
◎冨浦の氏神様として祀られている天神神社は、別名「北風神社」といい、風を祈る“風乞いの神社”だそうだ。
◎冨浦はお地蔵様が多い。そのほとんどは1696年(元禄9年)に移住してきた島ノ浦の人が安置したものらしい。
左側の地蔵の前の玉石にはシーグラスも。右側の地蔵は甕の中に安置されている
◎冨浦のさらに奥にある「男ノ浦」は遠浅の砂浜で、海水浴好適地。ただしトイレ等の設備はなく海水浴場ではない。
男ノ浦
【地名の由来】 「飛ヶ浦」が転じて「冨浦」となったそうだ。「飛ぶ」は昔船出の意。
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