2023年7月8日更新
豊玉町
千尋藻
【ちろも】
オロシカ湾4浦をまとめた
漁業の村は海を奪われたが
明治後に復活。今に至る
「チロモ」という、およそ村落名としては可愛すぎるともいえる音の響きをもった村のことを初めて知ったのは、宮本常一の『忘れられた日本人』の「対馬にて」でだった。そこには、宮本常一に村の古文書を貸し出すかどうかを、オロシカ湾共同体ともいえる千尋藻、鑓川、横浦、浦底の、四ヵ村の総代が話し合うために、手漕ぎ舟に乗って千尋藻に集まり、翌日には、返却された古文書をもとの箱に戻すのを見届けるためにまた集り、そして帰って行くというエピソードが紹介されている。
それは1950年(昭和25年)のことだったが、千尋藻からもっとも遠い横浦だと航路は片道2.5kmほどもある。この距離を夜中に一人で漕いで帰る。明かりは月の光だけだ。
今は「大漁湾」と書いて「おろしかわん」と読ませるが、かつては「於呂志加湾」と書かれたり、「千尋藻浦」と記されることもあった。
大漁湾の北に口を開いたような地形は、鯨やイルカが迷い込みやすいのだろう、江戸時代から昭和まで、寄り鯨漁、イルカ漁がこの地区の名物漁だった。
寄り鯨は多くの場合、浜に打ち上げられるか、浅瀬で動けなくなった鯨であった。発見するとすぐに藩庁に報告し、駆けつけた鯨奉行と問屋商人によって入札が行われ、取引きが成立すると落札者に渡された。
落札金額から発見者への報奨金を差し引いた金額の3分の2が運上銀として藩に納め、村には3分の1しか入ってこなかったが、解体費などの別収入があった。生き鯨の場合は3分の1が藩で、3分の2が村だったが、後世になると寄り鯨と同じような配分になったそうだ。
東海岸に沿って南下する鯨やイルカは、オロシカ湾に迷い込みやすい。特にイルカ漁はこの地形が味方した
出典:国土地理院地形図(村名等を強調)
イルカ漁の絆
イルカ漁は千尋藻、鑓川、横浦、浦底(かつては大千尋藻、小千尋藻、鑓川、横浦)の4村の共同で行われ、伊奈・志多留・女連(うなつら)の3村共同の漁と同じように、村々は競って船を出し、イルカを湾の奥へと追い立て、網で囲い、一番モリから三番モリまでは女たちが突いた。イルカ奉行が派遣されて入札が行われるのは鯨と同様。ただしイルカの場合は、正徳元年(1711年)からは、3分の1が藩で、3分の2が村の取り分となった。
このイルカ漁という4ヵ村共同の事業が4つの村のつながりを強め、4村の総代による寄合いが始まったと言われている。
オロシカ湾のイルカ漁は1964年発行の『新対馬島誌』の「対馬の産業」で詳しく述べられ、写真も大きく掲載されているが、その頃には既に行われていなかったという。
『新対馬島誌』の「対馬の産業」の扉ページ:伝統漁として掲載されたのだろう
大千尋藻と小千尋藻
室町期の朝鮮の書『海東諸国紀』(1471年)に、「温知老毛浦(おちろも)60戸」「昆知老(こちろ)40戸」と記されており、「大千尋藻」「小千尋藻」が室町時代中期にそれぞれそれなりの戸数を有していたことがわかる。
また、1399年(応永6年)、宗貞茂の命で青見次郎左衛門が大千尋藻に代官として赴任。4浦(大千尋藻、小千尋藻、鑓川、横浦)を統括したという記録もある。
いつの頃から大と小に分かれたか、確かな記録はないが、「小(こ)」は「古」のことであり、千尋藻の人たちは元々は小千尋藻の方に住んでいたが、住民が増えたので自然に居住エリアを拡大。大千尋藻が誕生したのだろう。そう考えると、かなり古くからの村となるが、まだ弥生時代の遺跡は発見されていない。
戸数激減、そして元禄の大火
近代に入ると戸数が減っている。藩が漁業が禁止したことによるものだろう。元禄11年(1698年)には、大千尋藻/小千尋藻合わせて戸数27戸になっていた。そして、その年、そのうちの23戸が全焼するという大火に見舞われた。成人男性はすべて鹿狩りに出ており、留守は老人と女子供だけだったことも災いした。
その5年後の統計で戸数29戸、人口122人となっている。なんとか盛り返したのだろう。さらに65年後の統計では、人口が180人まで増えている。戸数は20戸に減っているが、これは隠居家の廃止等によるものではないだろうか。
明治になると漁業に対する規制がなくなり、千尋藻は本来の輝きを取り戻したかのように活気づいたのではないだろうか。1884年(明治17年)には戸数41戸/人口215人、1927年(大正13年)には戸数63戸/人口374人と、戸数/人口とも大いに増加し、狭い土地に家屋がひしめくことになった。
大千尋藻
六ノ御前神社の大イチョウ
ここのイチョウは雌株で、幹周り6.3m、高さ約10mの、イチョウとしては対馬第2位の巨木だ。おそらく植樹したときは、これほど大きく育つとは想像していなかったのではないだろうか。周囲の空間がかなり窮屈に感じる。
樹齢1500年とガイドブックなどでは紹介しているが、実際は琴の大イチョウよりは若いだろうから、多めに見積もって500年というところではないだろうか(琴の大イチョウでも600年以上ということはない)。今でも壮年期というから、もっと若いかも知れない。
揚子江南部原産のイチョウを出世・栄達の木とし、その植樹が中国で広がったのが11世紀。日本への伝来期を特定する材料としては、1323年(至治3年)に中国から博多に向かい沈没した貿易船からイチョウが発見されたことが有力だ。書物にイチョウが登場してくる時期もそれから50年後くらいで辻褄が合う。この頃に日本に伝来したと考えられ、室町時代前期から中期にかけて日本全国に普及したと考えられている。
なお、1972年(昭和47年)、長崎県の天然記念物に指定されている。
六ノ御前神社の大イチョウ(2021年) 写真:鍵本妙子氏
1952年に忽然と姿を現した巨大漣痕
漣痕は、砂岩などの堆積層の表面が、水流や気流あるいは波浪の作用によって波状に削られた痕跡。別名「さざなみの化石」とも言われている。
千尋藻の漣痕は、水流によって形成された舌状痕とよばれるもので、地球が超温暖化と寒冷化等によって大きく変化した、古第3紀~中新世初期(6500万年~2600万年前)に形成されたそうだ。
基部の長さ29m、高さ25m、面積約500㎡と規模も大きく、流痕も明確で、対馬島の生成を考える上で貴重な資料でもある。
1952年(昭和27年)、台風時の崖崩れによって忽然と露出したこの漣痕は、対馬の漣痕では唯一、長崎県の天然記念物に指定されている。
【地名の由来】「千尋」とは長さ、深さが長大であること。「藻」は浦の転訛とされ、「千尋藻」とは深い浦という意味ではないかという説がある。
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