海軍要港部が竹敷に置かれた1896年(明治29年)から、竹敷の人口は急激に増加し、最盛期には2000人を超えた。丘の上まで家が建てられ、遊郭もでき、海軍景気に大いに沸いた。
1904年(明治37年)には、鶏知村から独立し、黒瀬、昼ヶ浦、島山を加えて、竹敷村となるまでになった。しかし、その繁栄もつかの間、1910年(明治43年)の韓国併合が、大きく竹敷を運命を変えることになった。
韓国との間に緊張がなくなると、1912年(大正元年)、海軍は地理的により有用な朝鮮半島南岸の鎮海に要港部を移設。竹敷の部隊は防備隊となり、それも4年後には廃止された。
その8年後となる1924年(大正13年)には、竹敷の人口は515人と、往時の4分の1まで減ってしまった。
第二次大戦後は海上自衛隊の対馬基地分遣隊が置かれ、現在にいたっている。