対馬全カタログ「村落」
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2020年7月28日更新
美津島町
竹敷
【たけしき】
万葉集と、旧海軍と
海上自衛隊の村
『万葉集』の中の竹敷
 防人(さきもり)の島として知られ、『万葉集』でも防人の歌で登場する対馬だが、実際に防人が詠ったのは4首のみ。対馬で詠まれた歌の多くは736年(天平8年)の遣新羅使阿倍継麻呂一行によるもので21首あり、その内の18首が竹敷ノ浦で詠まれたとされている。

竹敷の黄葉をみれば吾妹子が
待たむといひし時ぞ来にける

竹敷のうへかた山は紅の
八入の色になりにけるかも

竹敷の玉藻なびかしこぎ出なむ
君が御船をいつとか待たむ
 最後の歌は玉槻(たまつき)と呼ばれる娘の歌。この時代の対馬に歌を詠むほどの教養ある子女がいたかどうか。対馬に流れてきた遊女説、海女になりかわっての代作説など、歴史家にロマンを提供している。
船を浮かべ優雅に過ごすなら、ここが最適。モウコ崎
由緒ある地名の謎
 『万葉集』に登場することからその存在を歴史に刻むことになった竹敷だが、万葉仮名では「多可思吉」あるいは「多可之岐」と書かれており、音としては「たかしき」。その「たかしき」が竹敷となったのは、江戸時代に「竹の浦」という村を、これがかつての「たかしき」に違いないと、対馬一番の賢人として知られる陶山訥庵が比定し、竹敷と書いて「たかしき」とルビを打ったことに由来する。
 つまり、「たかしき」という音に近い地名が付近にないことから、竹の浦が「たかしき」であろうということになり、地名も両者の折衷で「竹敷」を当て、それが定着し、音は漢字にそろえられ「たけしき」となった。
中世の竹敷をまとめた高尾氏
 中世の頃、まだ竹の浦だった頃、朝鮮の書『海東諸国紀』によると戸数は80戸ほどで、浅茅湾の村の中ではどちらかというと小規模な村だった。その村を束ねていたのが、後に廻船商人としても活躍した高尾氏だった。
 応永の頃、当時船頭であった高尾氏は、宗貞茂に忠誠を誓い、宗氏の家臣になったと伝えられている。領地は小さく、竹の浦をまとめるだけの弱小領主だったが、軍役を務めながら、漁業をベースにしながら、渡航の自由や交易の権利を得ることで、廻船問屋として活動域を広げていった。
 そんな高尾氏の繁栄は、中世の少々乱暴だが自由に行き交うことができる、大らかな時代背景が前提だった。江戸時代になり農業中心の規制の強い社会になると、島民の自由闊達さは失われ、繁栄は府中だけに集中した。
日本海海戦大勝利のお膳立て
 遣新羅使以後、竹敷が日本史に登場したのは明治時代になってから。日清戦争(1894~1895年)以後の朝鮮半島の有事に備え、旧海軍は1896年(明治29年)に竹敷に海軍要港部を設置した。
 そして、艦船の速やかな移動のために、対馬の地峡部を開削し水路をつくるプロジェクトを立ち上げた。のちに「万関の瀬戸」と呼ばれる水路は1900年(明治33年)に完成。そして、それが日露戦争の日本海海戦、別名対馬沖海戦(世界では「対馬沖」を採用している)における大勝利の要因のひとつになったのだった。
隣浦の深浦には、水雷艇基地
 対馬では日露戦争と、竹敷の海軍要港部が有名だが、日清戦争の8年も前の1886年(明治19年)、緊迫する極東情勢をにらみ、日本海軍は竹敷に水雷敷設部を置き、隣浦の深浦に水雷艇基地を設置した。水雷艇とは今風に言えば、魚雷艇。日清戦争では、その魚雷で相手の戦艦を大破させる等、大いに活躍したそうだ。
 今、竹敷から急坂を上り深浦に行くと、目の前には製塩所が飛び込んでくる。水雷艇の係留ゾーンはその敷地の奥にあり、岸には木々が立ち並び昔の面影はない。しかし、石垣で直線的に建造された護岸、底まで石が敷かれたドックは独特の雰囲気を醸し、ここにかつて軍艦たちが係留されていた風景を彷彿とさせてくれる。
 特に石ドックは、近代土木遺産としても優れたものであり、「日本近代土木遺産」(土木学会)でAランクに指定されている。
鹵獲(ろかく)したロシアの潜水艦の技術調査も行われたという石ドック
水雷艇を係留した石造りの岸壁。対岸にもある。
海軍景気の終焉
 海軍要港部が竹敷に置かれた1896年(明治29年)から、竹敷の人口は急激に増加し、最盛期には2000人を超えた。丘の上まで家が建てられ、遊郭もでき、海軍景気に大いに沸いた。
 1904年(明治37年)には、鶏知村から独立し、黒瀬、昼ヶ浦、島山を加えて、竹敷村となるまでになった。しかし、その繁栄もつかの間、1910年(明治43年)の韓国併合が、大きく竹敷を運命を変えることになった。
 韓国との間に緊張がなくなると、1912年(大正元年)、海軍は地理的により有用な朝鮮半島南岸の鎮海に要港部を移設。竹敷の部隊は防備隊となり、それも4年後には廃止された。
 その8年後となる1924年(大正13年)には、竹敷の人口は515人と、往時の4分の1まで減ってしまった。
 第二次大戦後は海上自衛隊の対馬基地分遣隊が置かれ、現在にいたっている。
最初の対馬空港は水陸空港
 再度竹敷にスポットが当たったのが、1963年(昭和38年)に完成した対馬空港だった。長さ150m、幅20mの滑走水路やエプロン、ターミナルビルを配した水陸空港だったが、島民にとっては“”海の時代から空の時代へ”という、時代の流れを感じさせる画期的な出来事だった。
 離島振興事業の一環で、現在の対馬空港が開港するまでのつなぎとして、長崎県大村空港との間を水陸両用機が往復したが、機体の故障等が原因で運休が多く、実際に飛んだのは約3年ほど、1964年(昭和39年)から1966年(昭和41年)までだった。
 その後、1968年(昭和43年)には閣議で廃止が決定され、1975年(昭和50年)10月の新対馬空港オープンまで、対馬と本土を結ぶ空の便は途絶えることになった。
【地名の由来】 本文参照。
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