2024年11月19日更新
上対馬町
舟志
【しゅうし】
舟志湾の浦奥、
舟志川河口にたたずむ村は
かつては上対馬最大の村
村の始まりは弥生時代
舟志集落北端の突き出た丘の上に厳島神社があり、有柄式磨製石剣が収められているそうだ。長年、出土地不明とされてきたが、ほぼ同位置に墳墓が発見され、石剣はその副葬品と考えられている。対馬では同じような石剣が弥生時代前期の墳墓から発見されることが多く、この墳墓も同時期のものと推定されている。
このことから、舟志は弥生時代から豪族の拠点であったと考えられ、さらに浦奥の中原(なかばる)では石器が採集されており、縄文時代から人が定住していた可能性があると言われている。
なお、舟志から五根緒に行く途中にある舟志乃久頭神社には、弥生時代後期のものと思われる広形銅矛が神宝として収められている。こちらは出土地不明のままだが、舟志の豪族と関係があるのかも知れない。
舟志周辺地図 出典:国土地理院地形図(地名拡大・名所追加等)、長崎県遺跡地図
豊崎郡東部の主邑として
中原(なかばる)地区の今宮神社が在庁殿の霊を祀るために建てられたと伝わっているところから、舟志にはかつて権勢を誇った阿比留在庁と近い関係にあった有力者がいたと考えられている。鎌倉時代の宗氏登場まで、長く阿比留氏とともに発展してきた村なのではないだろうか。
1471年に編纂された朝鮮の書『海東諸国記』には、舟志に「守干時」という字が当てられ、家数15戸ほどの村と記されているが、その後の発展を考えると少な過ぎる数値だ。その約60年後、豊崎郡は西と東に分けられ、西の郡代は豊に置かれ、東の郡代が舟志の武本氏だった。
武本氏はその後も舟志の最高位給人として、幕末(正確には明治4年の廃藩置県)まで舟志に君臨することになる。
室町時代後期に塩づくり
室町時代、対馬では海水を竃で焚く塩づくりが主産業だったが、舟志でも製塩が行われていたようだ。
1574年(天正2年)の古文書に、舟志の竃師(塩づくりを統括する責任者)古藤与三兵衛尉宛てのものがある。その頃になると「塩木」(塩づくりの燃料となる木)の供給が追いつかず、対馬の製塩は廃業が続き下火になっていたが、まだ舟志では製塩が行われていたようだ。舟志周辺の山にはその頃も塩木が十分にあったということだろう。製塩のスタートが遅かったのか、あるいは周囲に潤沢な山林資源があったということだろうか。
塩竃の経営者は地侍であった古藤氏だが、塩竃がいつまで続いたのか、それを示す記録はない。17世紀前半に対馬の塩の流通が停滞したと言われており、その頃に終了したのかも知れない。
豊崎郷で最も豊かな村だが、戸数が大幅減
江戸時代初期、1645年(正保2年)の物成(年貢)は、豊崎郷で最も多く100石余。1700年(元禄13年)でも95石余で1位だ。江戸時代初期、舟志は豊崎郷で最も実り豊かな村だったようだ。
1700年(元禄13年)には戸数70戸、人口265人(11歳以上)となり、米麦の収穫量だけでなく、村の規模も豊崎郷最大だった。
1861年(文久元年)には戸数と人口は、鰐浦に次いでの2位となるが、米麦の収穫量は元禄時代の1.5倍で、やはり豊崎郷1位だった。
ただ気になるのは、人口は増えているのに、家数が大きく減少していることだ。70→48と、2/3になっている。しかも1731年(享保16年)には家数が81まで増えての48だ。
それには二つの原因が考えられる。1731年12月に大火事があり、80戸が全焼してしまった。村の建物のほとんどが焼失してしまったことになる。藩から救援の食糧や支援金はあったようだが、80戸すべてが建て直されたとは考えにくい。
そして、1757年(宝暦7年)に発せられた『百姓の年中行事と掟』は、百姓が隠居家を建てることを禁止した。これら二つの事情で、家数が減ったと考えられる。
また、1861年のデータで計算すると、村人一人(11歳以上)の1年間に食べられる麦の量は、0.69石。1日の量は1.9合で、当時の対馬の平均1.8合よりは少し多い、ということになる。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約95石余、戸数70、人口265、神社1、寺2、給人6、公役人25、肝煎2、猟師25、牛40、馬31、船6
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦579石、家48、人口334、男127、女152、10歳以下55、牛63、馬47、孝行芋3,480俵
舟志集落(2022年)
中原(なかばる)は伊奈郷に
現在、舟志の一部となっている中原地区だが、江戸時代は舟志から切り離されて伊奈郷に属していた。
室町時代末期、伊奈郡主の権勢は強く、舟志は豊崎郡だったが、舟志の兄部(このこうべ)寄合(庄司氏中心に構成された商人グループ)に伊奈郡の琴の土地を給付するなどして、自らの御用商人として使っていた。そういう経緯もあってのことだろう、中原の土地は伊奈郡主の所領となり、それ以来伊奈郡。江戸期に「郡」が「郷」に変わってからは伊奈郷の属地となった。
元和年間(1615~1624年)には、中原の地に伊奈郷茂木村の全員が移住した。1661年(寛文3年)には一度茂木に戻したが、やはり茂木での生活は苦しいということで、再び中原に住むようになったそうだ。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』には中原村のデータもあり、戸数13、人口81、給人1、公役人10、肝煎1、猟師9、牛5、馬10、船3、となっている。物成がないのは、舟志側の土地の分は舟志の物成に含まれ、琴側(茂木)の物成は琴に含まれたという、変則的な物成区分による。
そして、中原が舟志と分離された状態は、昭和まで続いた。
かつては亀卜も行われた、舟志乃久頭神社
舟志から五根緒に向う道路の右側、紅葉街道入口の南東側に、舟志乃久頭神社(しゅうしのくずじんじゃ)がある。舟志からは1.8kmほども離れているが、舟志の氏神だ。
舟志川の水辺に祀られ、その神寂びた雰囲気は、美津島町加志の太祝詞神社に通ずるものがある。かつては太祝詞神社と同様、亀の甲羅で占う亀卜(きぼく)が行われていたそうだ。
祭神は、神皇産霊神(かみむすびのかみ)と多久頭魂神(たくづたまのかみ)で、弥生時代後期のものと思われる広形銅矛が神宝として収められている。
秋祭り(例大祭)は以前は旧の11月1日だったが、現在は11月2日に行われている。かつては奉納相撲もあったそうだが、現在は掃除してからお祭りし、お詣りするというシンプルなもの。多くの区民が参拝に訪れるという。
舟志乃久頭神社
対馬一の紅葉、舟志の紅葉街道
舟志から県道39号線を南下し、舟志乃久頭神社の手前を左に曲がった先、舟志川沿い約7kmの区間は、対馬一の紅葉の名所として知られており、周辺は「舟志森林公園」として整備されている。秋には赤く色づいたモミジやカエデと常緑樹の緑が織りなす川沿いの美しい景色が楽しめる。
見頃は11月中旬〜11月下旬(11月20日前後)で、駐車場は約50台。駐車場が満車の時は道路に止まっていることもあり、歩行者もいるので、車で通行の際には十分注意が必要だ。
舟志川に沿って紅葉が連なる紅葉街道 写真:夏原博之氏
かつてあった大増・舟志間渡し船
大増から舟志に至る海岸線は断崖絶壁が多く、道を通すのが容易でないため、かつては渡海船が移動手段だった。
『上対馬町誌』に載っている1958年(昭和33年)の運行案内によると、営業時間は毎日、日の出から日の入りまで、となっているが、舟志始発が7時20分、大増終発が午後6時と、バスの発着時間に合わせているそうだ。
料金は、一人の時45円、二人の時35円、三人の時25円。中学生以下は20円。当時の物価で考えると、それ程安くもないのではないだろうか。
この渡海船がいつ始まり、いつ終わったのかは『町誌』に載っていないが、比田勝・舟志間のバス運行が1968年(昭和43年)12月にスタートしたので、それと同時に廃止ということだろう。
渡し船航路(推定) 出典:国土地理院地形図(村名拡大/村名追加/航路記入)
【地名の由来】 1405年(応永12年)の史料に「しうし」という地名があり、さらに1439年(永享11年)の史料には「しゆうし」とあるそうだ。「舟志」という漢字表記は、「しゆうし」という発音に漢字を当てたものではないかと考えられている。
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