対馬全カタログ「村落」
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2024年5月7日更新
厳原町
士富
【しとみ】
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土地は下原でも住所は樫根!?
寒暖差で野菜がおいしい!
さらにホタルの名所でもある
対馬では珍しい丘陵地農業の美景
 士富の魅力は、ドローン撮影の写真を見ればわかるように、ゆるやかな傾斜がうねるように広がる、対馬では他にない穏やかな景色だ。
 緑の絨毯のような田や畑では米と麦の二毛作が行われ、サツマイモや野菜が作られている。昼と夜の寒暖差が大きく、農作物の品質がよく、「野菜がおいしい」と評判だそうだ。
 かつては木炭を焼き、炭俵を対州馬に乗せ、あるいは自らが背負い、山を越えて厳原で売り、現金収入を得ていた。厳原に近いという地の利が幸いしたという。
 最近は高齢化で耕作をやめるところが出ているが、農業法人「樫椎小原(かしこばる)」が収穫の一部を収める代わりに土地を借りるという方法で、耕作は維持されている。
士富周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名拡大、地名追加等)
士富といえば、ホタル
 対馬では、「士富」といえば「ホタル」と誰もが返すくらい、ホタルの名所として知られている。対馬のホタルといえば「アキマドボタル」が有名だが、こちらで観賞できるのはゲンジボタルだ。
 その幼虫は川の中でカワニナという貝を餌に成長するため、きれいな渓流に生息している。しかし近年は、対馬でも生活排水や農薬による汚染、護岸工事による影響でその数は減少しているそうだ。
 士富でも2000年頃までは多かったが、その後減少。しかし、家々の明かりが蛍光灯からLEDに変わった頃から、また多く飛ぶようになったと、長年ホタルを観察している地元のホタル愛好家が教えてくれた。
 ホタルは青などの短波長の光に大きく影響されるという。蛍光灯は紫外線など短波長の光成分が多いので、それに敏感に反応したのだろう。横須賀市では水銀灯をオレンジ色のナトリウム灯に変えただけで、ゲンジボタルの生息地の拡大が見られたそうだ。
 ホタル観賞は、6月上旬、10日前後の新月の日、8時半~9時半がピークだそうだ。
川面に映った光の乱舞   写真:長瀬利東氏
ホタル生息地の標柱と佐須川にかかる沈下橋
ホタル観賞の注意点
 士富地区や経塚地区では、ホタルの飛ぶ辺りは外灯にカバーをかぶせ、ホタルを刺激しないように配慮しているそうだ。
 とにかくホタルは光に敏感。特に車のヘッドライトの光は強烈なので、過敏なくらい反応するそうだ。遠くからでも影響があるという。
 車で士富地区や経塚地区に入ったら、停められるところがあれば生息地から離れていても車を停め、また停める際にはハザードランプは点けず、ドアの開閉もできるだけ静かに。
 車を降りたら虫除け対策をしてから歩いて川辺に向うが、歩く際もできるだけ光をともさず、大声を出さず。どうして光が必要であれば足元だけを照らし、川が近づいたらライトを消してホタルを探し、ホタルを刺激しないように、静かにホタル観賞をたのしむ。携帯やスマホによる通話も禁物だ。
 また、撮影する場合は発光しないように設定することを忘れないように。もちろんホタルを捕まえようとしてはいけない。
 ホタル撮影の露出設定の一例、ISO3200でF11、3分。三脚は必須だ。
士富は川から左側。写真の下にもう1軒ある 
下原or樫根? 二重住所の不思議
 現地取材でわかったことだが、士富のど真ん中にある家なのに、つまり行政区画では下原なのに、住所は樫根だそうだ。しかし、今度帰ってくる息子の転入届の住所は下原で、番地は同じだという。同じ家に住むのに、樫根と下原の住所が混在するということになる。
 これは明治時代に住所を決める際のその方法が原因だと思われる。1871年(明治4年)に制定された戸籍法による地券制度を、1886年(明治19年)に不動産登記のための「土地の表示」に用いたことによる混乱だと考えられる。
 あくまでも課税を最優先目的とした戸籍法&地券制度は、土地の所有者を主体に土地に表示(地名+番地)を付けたため、樫根側に住んでいる人が下原側の土地を所有していても、樫根の住所を使ったのではないだろうか。その方が行政側としては効率的だから、という理由だろう。それが現在まで遺っているというのも、長い間、それで不都合がなかったからだろう。
 しかし、コンピューターが導入されてからは、曖昧なことが不都合になってきた。そこで、ルールに則した正しい住所を使わなければならなくなった、ということではないだろうか。
樫根の「くのえ」が先祖の在所だった
 現在、士富には、三山家4世帯と一宮家が1世帯が住んでいる。地区の8割を占める三山家に関してはかつて樫根の海に近い方、椎根との境界に近い「このえ」という集落に住んでいたという。
 江戸時代後期に、火事を出したことが原因で村八分にあい、それなら村を出ようということで、落ち着いた先がここだったという(当初は経塚側だったかも知れない)。もちろん、勝手にここに移れるはずはなく、樫根の下知役に申し出て、奉役に、あるいは郡奉行に許可をもらうという手続きは必要だったはずだ。まったくの荒地であれば、藩にとっては年貢が増えるわけだから、すんなり許可されたのではないだろうか。
 その頃、既に先住者がいたかどうかはわからないが、一家で荒地を開墾し、年貢も納め、この土地に根付くことができたということは、移住は成功だったということだろう。
士富の人たちは樫根領の最西部にあった「くのえ」部落から、一家のみ移転した、その子孫だという   出典:国土地理院地形図(地名拡大、地名追加等)
現在は上山地区だが、祭事は樫根地区
 佐須川中流域の、士富、経塚、大板、若田の一部によって構成される地区が「上山地区」だ。行政区画である下原と樫根を横断して、ご近所の集落をまとめた、地域の自治を考慮しての地区割りということだろう。
 ただ、士富は住所が以前から樫根だったように樫根との結びつきが強く、士富の人々は、樫根の銀山神社の氏子であり、祭事予定表は樫根のものだ。
【地名の由来】 「士富」の由来を語っている資料は見当たらず、由来不明。
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