対馬全カタログ「村落」
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2021年2月1日更新
上県町
志多留
【したる】
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豊かな自然と歴史を活かし
挑戦するIターン者は
この村をどう変えるだろう
3000年の時を超えて
 1948年(昭和23年)に高床式の小屋の床下から、志多留貝塚(縄文後期)が発見された。これが対馬で最初に発見された貝塚であり、3000年前の縄文層からは黒曜石の鏃や骨で作った狩猟具、弥生層からは対馬で唯一の石包丁が出土している。この発見はここで稲作が普及していた可能性を強く示唆している。
 また、その上層からは、上島では唯一の卜甲(亀卜に使用)が出土し、同型の卜甲が6世紀の壱岐の遺跡からも発見されており、古墳時代後期のものと比定されている。このことからも志多留は縄文後期から弥生全期、古墳時代全期を通し、長期にわたって人々の営みがあり、当時の上島の政治の中心であったことがうかがわれる。
志多留貝塚(2003年撮影)
大将軍は上県直か? 
 その貝塚の西に位置する大将軍山古墳は、4世紀の高塚古墳で陶質土器、土師器、玉類が出土。この時期の高塚古墳は対馬では2ヵ所だけ。かなり身分が高く力のあった首長の墓らしく、村の一角には遥拝用の石碑も立っており、かつて対馬の上島を治めたと推定される「上県直(かみあがたのあたい)」のものではないかとも言われている。
 また、大将軍山の麓には、千人塚と呼ばれる古墳時代後期の積石塚古墳もある。さらに志多留では溶鉱炉の跡らしいものが発見されており、対馬墳墓の埋葬品として特徴的な青銅平矛を鋳造した可能性が高いといわれている。
大将軍山古墳の石棺
縄文晩期にすでに稲作がスタート!?
 かつては「小伊奈」とも呼ばれたところから、伊奈の枝村のように扱われたこともあったようだが、村の発生は伊奈よりも古いとされており、その証左として前述の遺跡の多さが挙げられている。
 伝説にある鶴が稲穂を落とした地は伊奈かも知れないが、その穂から米をつくったのは志多留の田であり、そこは神田とされ、特別に「榎田」と呼ばれている。
 2017年に、志多留の奥にある志多留湿原の2800年前の縄文晩期の地層から、イネ科草本類の花粉が急増するという調査報告が、北九州大学等の研究者から出された。弥生ではなく縄文晩期に、対馬に稲作が伝わったのではないかと考えられる重要な発見だ。
 この調査結果に則して考えると、志多留は2800年前から対馬では珍しく稲作が盛んな村だったと言える。しかし残念なことに、現在、農業の後継者が育たず、「榎田」も含めほとんどの田は休耕地になってしまった。だが、それを復活させようという活動が始まっている。
石垣と古民家の村
 志多留に入るとまず気づくのが、その立派な石垣だ。風対策かと誰もが思うが、それだけではないようだ。1872年(明治5年)に志多留は大火にみまわれた。当時はどの家も茅葺きだったので火のまわりが早く、ほぼ全焼だった。その反省をもとに再建する家の屋根は瓦葺きとされたそうだ。そして同時に、石垣も類焼を防ぐために取り入れられたのではないだろうか。防火壁(火切り石)を巡らせた厳原の武家屋敷群がお手本ではないかと思われる。
 また、志多留の農家は武家屋敷のように広く、堂々としているという。屋敷も含めて厳原を参考にしたとも考えられる。
 ただ残念なことに、石垣は一部だが道路拡張のためにブロック塀に変り、古民家も空き家が目立つようになってきた。車が増え、人は減るというのも抗しがたい時代の流れだが、空き家に関しては、古民家の良さを次代に遺していこうと、古民家再生プロジェクトが進行中だという。
石垣に囲まれた志多留の道(2003年)
伝統行事も昭和で途絶えて
 文永の役では伊奈湾を襲った蒙古軍に抗して志多留の人々も戦った。蒙古塚にはその戦死者を、殿様塚には戦死した副将軍をまつっていると言われているが、副将軍が誰かは不明だ。
 また、山の頂上を石で覆い、さらにその中央部に石を積んで壇をつくったカナグラダン(神座壇ということか)と呼ばれる祭祀遺跡もある。周辺の森は禁忌が厳しく女人禁制でもあった。
 この村は、昭和の頃までは対馬ならでは宗教行事が根強く残っていた。旧暦6月初午の日に行われるヤクマ祭。旧暦正月2日に数え歳8歳~15歳の男子によって行われるセーンカミ祭。後者はおそらく少子化が原因で中断したのではないだろうか。そうであれば、今の志多留なら、いずれ復活の可能性もありそうだ。
現在は島おこしの拠点に
 対馬市では2011年(平成23年)に島おこし協働隊発足を発表した。そのために全国から隊員を募集し、応募、採用された5名が第1期生としてそれぞれの専門力を生かして活動。任期終了後も対馬に残った隊員もおり、その中の一人は志多留を拠点に活動を継続した。
 志多留は、人口約60名、高齢化率6割超。耕作放棄地も多く、それにともなう里地里山の生物多様性の劣化、空き家の増加など、問題が山積している。それをあえて課題、あるいは教育資源として受け止め、地域おこしの実戦ラボとしてチャレンジがはじまった。
 当初設立した一般社団法人MITは活動拠点を佐須奈に移したが、現在は対馬グリーン・ブルーツーリズム協会や、その運営も兼ねている 一般社団法人対馬里山繋営塾(けいえいじゅく)が、再生した古民家を拠点に活動を展開。「志多留=学べる集落」として、過疎再生・環境保全等を通した地域おこしに取り組んでいる。そして、その活動が志多留を変えている。
一般社団法人 対馬里山繋営塾(対馬グリーン・ブルーツーリズム協会事務局) 
子供たちの声と、若い移住者
 志多留の変化の一つが、最近子供たちの元気な声が戻ってきたことだ。少子高齢化による過疎の進行が止まらない対馬だが、対馬市は長崎県が音頭をとっている離島留学制度(島外の小中学生を通年で預かり、島の小中学校で学んでもらう制度)を推進している。その制度に対馬里山繋営塾も参加し、離島留学生を里親として受け入れる活動をしている。
 また、若い移住者も増えてきた。その最初の一人が島おこし協働隊一期生だが、その活動が軸となり、志多留で計7名のIターン移住者(2020年現在)が生活しながら、志多留を、対馬を、盛り上げていこうとしている。
 社会学者宮本常一の論文の中の一節に、「地域社会における文化の発展は外来者の影響がもっとも大きく,かつその受容方法によって様相を異にする」という言葉がある。「外来者」を今風にいうと「Iターン者」。文化という視点であれば「Uターン者」も含まれるだろう。
 この“志多留モデル”は対馬の中でも特異なケースかもしれないが、過疎をどう生きるかの、対馬はどう変わるのか、そしてこれからの時代をどう生きるのかの長期プロジェクトとして、対馬全島から注目されている。
築約130年というから、1872年の大火後に建てられた。歴史を伝える太い梁。そこから吊されたハンモックが子供たちの笑い声を感じさせる。
【地名の由来】 伝説では水のしたたる状態から起こったと言われているが・・。15世紀初頭にはすでに志多留という地名だった。
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