対馬全カタログ「村落」
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2024年8月2日更新
厳原町
下原
【しもばる】
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佐須の政(まつりごと)を牽引
新しい遺跡の発見によって
歴史の解明に期待高まる
佐須4ヵ村の中で知名度4位
 かつては厳原から車で30分ほどかかったが、今なら10数分。2012年(平成24年)に「佐須坂トンネル」が完成し、佐須は気軽に訪れることができるようになった。
 対馬にはいくつかの村(地区)をまとめた地方名が3つある。佐護、仁田、佐須だが、昔からそれぞれに結束力があり、その呼び名は今でも日常会話でよく使われている。
 佐須を構成するのは、下原、樫根、小茂田、そして少し離れた椎根だ。
 その佐須4ヵ村の中で最も知名度が高いのが「小茂田」で、これは元寇によるところが大きい。次が石屋根の「椎根」。その次がおそらく「樫根」で、これはかつて銀山(銀鉱山)が、近年では亜鉛鉱山があったので、比較的知られている。
 観光名所もなければ、歴史に登場する機会も少なかった下原だが、実は対岸の樫根とともに佐須の中核として、佐須の政(まつりごと)を引っ張ってきた。
行政区 下原は、下原地区+4地区
 「下原」という地名は、行政区名と地区名の2通りの使われ方をしている。下原地区は世帯数20ほどの集落で、下の地図の黒字「下原」の周辺だ。行政区下原は、下原地区の他に、床谷、若田、士富、日掛の4地区を加えた、広大な山林も有する大行政区だ。山林は東は上見坂まで、南は久田の手前まで至る。
 2016年2月14日に開通した佐須坂トンネルは、全長1867m、対馬最長を誇る。これによって佐須~厳原間が車で15~20分も短縮された。利用者にとってもっともうれしいのは、狭い道やカーブの対抗がなくなり、緊張せずに走れることだろう。
 これによって小茂田浜への元寇観光も、椎根への石屋根観光も車で気楽に行けるようになった。

行政区下原は佐須川右岸で、士富(しとみ)地区のさらに上流(南)にある日掛(ひかげ)地区を含む  出典:国土地理院地形図(村名拡大、行政区着色、遺跡記入)
佐須川の右岸(写真では左側)が下原、左岸が樫根。元寇のあった頃はこの辺りまで海が湾入し、この辺が佐須川の河口で、砂が堆積し、干潟が広がっていたと考えられている
2023年以前の下原遺跡は2キロ上流
 歴史的な情報が乏しかった下原だが、2023年11月の下原遺跡の発掘で、状況は大きく変わるかも知れない(発表当時は「下原遺跡」だったが、県登録は「龍泉寺遺跡」)。
 かつて「下原遺跡」といえば、黒曜石剥片(こくようせきはくへん)が出土した、一般にはあまり知られていない遺跡だった。その他には、遺跡近くの士富(しとみ)で1940年(昭和15年)に採集されたと思われる打製石斧(だせいせきふ)が遺跡との関連で語られることがある、研究者なら知っているレベルの遺跡だった。
 現在、長崎県遺跡地図で「下原遺跡」を検索すると、その概要として「遺物包含地・丘陵・縄文時代/弥生時代/古墳時代」と記されており、2023年の発掘場所からは2kmほど佐須川上流になる。つまり、新たに発見された遺跡とはまったく別物だった。(その遺跡の主要エリアは地区名で言えば「上山地区」になり、あえて言えば「上山遺跡」という名称がわかりやすい遺跡だ。上の地図では「下原遺跡(旧)」とさせてもらった。)
下原遺跡(旧):長崎県遺跡地図の下原遺跡の範囲を写真に落とし込むとほぼ破線のエリア。下原地区から約2km上流にある 
“瓢箪から駒”の「龍泉寺遺跡」発見
 2023年に発掘された遺跡は、下原集落の奥にある龍泉寺前の休耕地の下にあり、まさしく「下原遺跡」と名付けるに相応しい遺跡だが、長崎県は「龍泉寺遺跡」と名付けている。
 発掘の経緯と成果が長崎県埋蔵文化財センターのFacebookに投稿されていたので、引用させていただく。
 「30cmほどの耕作土の下に黒褐色の地層があり、15・16世紀を主とした高麗の無釉陶器や雑釉陶器、粉青沙器や高麗青磁の小片が出土しました。この地層を掘り下げていく途中で、焼けた土が散らばる範囲を発見しました。もしや!と思い柱穴等の痕跡を探しましたが、明確な遺構は確認できませんでした。
 この焼土の範囲をよけてさらに掘り下げると、造成されたような砂利質の地層になります。蓮弁文のある青磁碗や白磁など、目当てとしていた鎌倉時代の遺物がちらほらと出土しました。厚さ50cmほどある砂利質の地層を掘り下げると、やっと柱穴状の遺構を発見しました!柱穴の並び等は認められないのですが、建物跡の一部である可能性はあります。
 出土遺物を全体的に見ると複数の時代にまたがるようで、少数ながら弥生土器や古墳時代の須恵器、古代末の土師質土器なども出土しており、この周辺が未知の複合遺跡であることが明らかとなりました。
 今後は、地層ごとの出土遺物の検討や炭化物の年代測定を行い、焼土や造成層、柱穴状の遺構の年代を絞り込んでいきます。また、謎の青銅製品の破片も数点出土しているので、詳細な分析を経て次回お知らせできればと思います。」
 今回の発掘は、元寇に関係する遺跡を探すことが目的だったが、もっと価値のある遺跡を発見してしまったということらしい。
 いずれにしても下原の地に弥生時代、あるいは古墳時代から続く人の営みがあったと考えてよさそうだ。新たな研究成果を期待したい。
赤い破線の辺りが発掘地点。左隅の黒屋根が龍泉寺。よって登録名は「龍泉寺遺跡」だそうだ
国指定の史跡、矢立山古墳
 矢立山古墳群は小茂田地区と下原地区の間、北から延びた丘陵の上、標高45m程の所にある。
 築造時期は7世紀後半。3基の古墳からなり、最初に発見された2基の方墳は約20メートルの間隔をあけて南北に並んび、遅れて発見された3号墳は1・2号墳よりも後に造られたもので、規模や構造などにおいて違いがあるという。
 1号墳、2号墳の方墳は厳密にいえば「積石方形段築墳」というタイプの墳墓で、これは当時の中央の最新墓制だったが九州では類例がないらしく、さらに金銅装太刀など朝廷からの下賜品と思われる副葬品の出土から、大和朝廷との深い関係がうかがえるという。
 積石で段築と言えば百済(韓国)にも多いそうだが、半島との関係はどうなのだろうか。九州に類例がないというなら、百済から対馬に伝わり、その後百済人の移動とともにダイレクトに中央に伝わったと考える方が合理的ではないだろうか。
 また、2023年に発見された下原遺跡と何らかの関係性があるのか、ないのか。歴史家の想像をかき立てずにはおられないようだ。
矢立山古墳群のある地蔵壇は、かつては入江(海)に突き出た岬だった。木が伐採されている草地が矢立山古墳群
積石・段築がわかりやすい矢立山1号墳
古墳の主は、銀山関係者か、郡司か
 663年(天智2年)に唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで敗れるが、『日本書紀』にはその11年後の674年(天武3年)に対馬から貢銀があったという記録がある。半島から逃れてきた百済の技術者集団が銀山を開発したと考えると、矢立山古墳は銀を精錬した集団の長、あるいはそれを管理した人間の墓ではないかとも考えられなくもない。百済に多かった「積石方形段築墳」なら尚更だ。
 また、鶏知にいた当時の対馬の首領「直(あたい)氏」が、国司が派遣されてきたことによって郡司となって佐須に移り住み、その一族が造ったのではないかとも考えられるそうだ。
 いずれにしても7世紀という、日本と朝鮮半島の関係が微妙な時代の古墳として、その時代の対馬を解明する上で欠かせない遺跡と言われている。
元寇で焼き払われたか、下原
 前述の下原遺跡発見につながった調査は、蒙古軍が集落を焼き払ったという文献があり(おそらく『八幡愚童訓』※)、その痕跡の有無を確かめるのが目的。当時の入江は深く湾入しており、おそらく上陸してすぐに下原と樫根の集落があったと考えられ、その2つの地区4地点の表土を掘削したそうだ。そして下原の1地点のみその成果があった。
 あくまでも想像だが、おそらく下原と海との間には広い干潟があり、干潟を挟んでの対峙、矢の応酬、それから蒙古兵の上陸、戦い、集落の焼き払いとなっていったのではないだろうか。下原遺跡で焼けた土の層が発見されたが、それは元寇によるものではないそうだ。
 敗死した地頭代・宗資国(そうすけくに)の「お首塚」は下原の山神神社の境内にあり、「お胴塚」のある法清寺とはかなり離れている。それほど激しい戦いだったのだろうと、多くの郷土史本は語っている。
 また、お胴塚のあたりで命尽きた宗資国の頭部を家来が敵から守り屋形まで持ち帰ろうとしたが、お首塚のあたりで息絶えたのではないかとも。(現在の塚はどちらも後世のものだが、素朴な塚を立派はものに建て替えたとも考えられる)

※『八幡愚童訓』は、1308年~1318年の間、文永の役の約40年後に誕生し、八幡大菩薩のご利益、神徳を子供たちに宣伝するためにつくられたもの。すべてが虚構とまでは言い切れないが、多くの研究者は実録資料としての価値を認めていない。
 対馬で史実、常識として語られている「80余騎」なども『八幡愚童訓』から出ている数字で、実はまったく根拠がない。
 「焼き払った」というのも同様、脚色だったのかも知れない。前述の遺跡調査もその真偽を確認するために遺跡調査だったと考えられる。
元寇名残りの「當祭り」
 いつの頃からの祭かは不明だが、宗資国を祀る祭りだそうだ。現在は簡略化され、1月2日だけで完結するようになったが、本来は1日から4日までの4日間通しで行われた。
 かつては下原と樫根の共同行事で「佐須の當(当)祭」と呼ばれたそうだ。昭和の初め頃までは盛大に行われ、かなりユニークな祭りだったので簡単に紹介したい。
 年が明けて元日になると、當受(とうけ=当番)の家で「せんぺい」と呼ばれる直径10㎝ほどの薄い餅をつくるのだが、米をついて粉にし、それをセイロで蒸し終わると、いよいよ祭りのメインイベントが始まる。
 男たちは蒸し終わった米を蕎麦打ちのように、こねて打って薄くしていこうとするが、それを娘たちが妨害をするというもので、男たちと娘たちの知恵比べ、体を張った攻防を當受の家の前に集まった村人が見物し、笑ったり拍手したり驚いたりと、年の初めの娯楽として楽しみながら、男たちが12枚の「せんぺい」をつくり床の間に供えることができたら、上がり=終了となる。
 その後は宴会となり、お開きになると、お首塚に膳代わりの栗の割板に「せんぺい」と栗の箸を載せて、さらにこのためだけに編んだ3つの竹籠に、栗の実、榧(かや)の実、“ところ”を一つずつ入れて供えて、初日の祭りは終わりとなる。
 かつては當受は下原2名、樫根2名が担い、2日、3日、4日は、また別の當受の家で行われた。
 現在は「あらそい」と呼ばれる女子からの妨害、攻防もなく、日も1月2日だけと、かなり縮小されてしまったが、お供え物を揃えるために9月から準備を始めるなど、下原では大切な正月の行事として今も守り継がれている。
 なお、かつての男たちと娘たちの「あらそい」は、元寇の争いを模したものと言われ、ミッション完遂をめざす男たちを宗資国側、行動を妨害する娘たちを蒙古側とみたてての、“行き当たりばったりアドリブ活劇”ということらしい。
(日野義彦著『対馬拾遺』に詳しく紹介されている)
佐須川で洗濯:撮影地は少し下流の小茂田だそうだが、1954年の下原もこんな風景だったに違いない  写真提供:宮本常一記念館
別名「走り走り祭り」。下原・樫根合同の天童様祭
 2年に1回開催される、下原・樫根合同の男だけの祭がある。樫根の法清寺から下原の天童を祀っている神社まで、新しい御幣を運び奉納する伝統行事で、旧暦の11月3、5、7日のいずれかの吉日に行われることになっており、稲作の状況によって決められるという。
 当日は午後3時前に神事が始まり、3時のホラ貝の合図で山持ち(椿の枝に麻苧(あさお=麻の紐)をつけたもの)、一番様(御幣)、二番様(御幣)、三番様(御幣)、神職、氏子の順で並び、お天道様に向けて行列が始まる。そのうち、山持ち、一番様、二番様、三番様を持った者たち が走り出し競争になるという。そこから「走り走り祭り」と言われるようになったが、正式には「お天童様祭」というらしい。
 お天道様祭で行列が通る道路脇にさざんかを植え、「さざんかロード」と名をうって地区で盛り上げていこうとしているそうだ。
下原の天道神社:鳥居の向こうには階段と遙拝する祭壇があるのみ
かつて佐須の観音像は下原にあった
 対馬六観音の一つ、佐須の観音像は現在、樫根の法清寺に納められているが、かつては佐須郡の政庁があった下原(床谷)の丘に建っていた観音堂に安置されていた。
 それがどういう理由か分からないが、1888年(明治21年)、樫根の法清寺境内の観音堂に移された(明治25年という記述もある)。
 また、その丘には元寇で討ち死にした宗資国の首を納めたと言われている「お首塚」もあり、今は荒れて使われなくなった立派な石の参道がかつての観音信仰を彷彿させる。
お首塚
対州そばを食べるなら、「対州そば匠(たくみ)」
 下原で、旅行者にとってありがたいのが、「対州そば匠」だ。長崎県で初めて「地理的表示保護制度」に登録されたのが「対州そば」だが、そばの原種の味、風味に近いと言われ、日本全国にファンが多い。
 その対州そばを、元寇観光、石屋根観光のついでに、食事処がほとんどない佐須でいただくことができる。
 厳原や鶏知から遠いだけに、客を呼ぶには味にこだわらなければならない。対州そばを提供している店は対馬には数カ所あるが、その中で一番になるべく、製粉から製麺、行程のひとつ一つにこだわり、熱に弱いそばの風味を大切にしているという。
 対州そば本来の味や風味を楽しむなら“ざるそば系”がベストだろうが、対馬の味を楽しみたいのであれば「いりやきそば」がいいかも知れない。
 また、同じ建物の中に、若田硯の製作体験やそば打ち体験ができる、体験であい塾「匠」もある。こちらは予約が必要だが、対馬の伝統工芸を気軽に楽しむことができ、自分で打ったそばをいただくこともできる。
対州そば匠の「天ざるそば」と「いりやきそば」
その他
◎納言塚:864年(貞観6年)の銀山の落盤事故で千人余人の死者が出たが、その責任を負って自殺した役人の墓と言われている。日見の谷にある。
【地名の由来】かつて「樫根」を「樫下(かしげ」)と呼び、その北側に広がる平地を「樫下原(かしげばる)」と呼んだそうだ。その後、「樫下原」を略して「下原」となり、呼び方は「しもばる」になったと言われている。
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