対馬全カタログ「村落」
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2020年8月1日更新
厳原町
椎根
【しいね】
椎根といえば石屋根だが、
その保存活動も
進取の気風があればこそか
風土と政治と経済が生んだ石屋根
 下島の中心である厳原市街から直線距離を測ると西に9kmだが、実感としては15kmくらいではないだろうか。それほど厳原とは隔絶感がある。
 対馬の西海岸は冬になると「あなじ」と呼ばれる北西の風が吹き寄せ、村々はそれに耐えて冬を越す。その強風に耐えるためにも重い石の屋根は非常に合理的であり、火事の際の類焼を防ぐためにも理にかなっているが、事情はそれだけではなかった。まず藩は農民に瓦を許さなかった。明治になりさまざまな規制がなくなると、徐々に瓦葺きに変わっていったが、当時は石が瓦より安いという理由もあったかも知れない、椎根では石屋根が続いた。
 石屋根がいつの頃から普及したのか、明確な記録はない。1811年(文化8年)の佐賀藩の学者の「対馬日記」に石屋根の記述がはじめて登場することから、江戸時代中期から後期にかけてと推定されている。
初夏の椎根
石屋根の値段
 母屋から離れた小屋は火事による被災を最小限にとどめることが目的で、300年以上の伝統があるらしい。昔は自給自足なので、衣類も食料も焼失すると大変な事態を招く。だから少々不便ではあるが母屋から離れて建てられ、そこに什器や衣類を保管し、食料を備蓄した。湿気とねずみによる害を防ぐために高床式で、村によって床の高さが違ったりするらしい。
 石屋根には対馬のどこでも手に入る頁岩(けつがん)=泥板岩を使用する。ただ立派な石屋根を望む場合は、浅茅湾の中央に位置する島山の頁岩を使用する。1985年(昭和60年)に行われた、文化財指定の石屋根の葺き替え工事経費は700万円だった。もちろん今は瓦の方が安い。
 石屋根は、椎根のほかに久根浜、久根田舎に比較的残っている。こちらは観光客が訪れることもなく、時の重みに少々くたびれた石屋根小屋が当たり前のように道路わきに建っている。
史料の少ない古代から中世
 椎根周辺には古代の遺跡はないが、椎根川の中流の恵比須社に11個の凹み石が祀られていたらしい。この石が縄文時代の遺跡から出土例の多い石器らしく、縄文時代、椎根周辺に人が暮らしていた可能性があるそうだ。しかし、その後の遺物は発見されていない。
 1471年に発行された韓国の書『海東諸国紀』に、佐須4浦300戸と記されているが、4浦の中の1つは椎根だということ。さらに1540年頃に椎根を安堵した文書が存在することから、中世も人の営みがあり、おそらく元寇で侵犯された歴史は、小茂田など、ほかの佐須の村と同様と考えられている。
比較的余裕があった?椎根経済
 1650年(慶安3年)、藩主が椎根川上流の山中における銀山開坑の願い出に許可を与えた、という記録が残されている。それから100年間銀山は続いたそうだが、それで村が潤ったかどうかはわからない。
 1884年(明治17年)の『上下県郡村誌』の学校の項に、公立小茂田学区椎根分校/生徒男12人、女12人、とある。この時代に男女同数の生徒がいる学校は他になく、女性の教育にも熱心な、この地区の進取の気風を語る好例だ。それは椎根が、対馬の中では比較的余裕のある村だったということかもしれない。
 同じ郡村誌で、物産として、米107石(中等)、大麦220石(中等)・・・とある。対馬としては量・質ともに素晴しいといえるだろう。それを可能にしたのが、椎根川下流域の埋め立て・開田・圃場改善で、木庭作が多い対馬の中では珍しく収穫量も多く、それが“比較的余裕”のベースだったのではないだろうか。
秋の観光シーズン
進取の気風と、石屋根倉庫保存プロジェクト
 「進取」というのは新しいものに積極的に飛びつくことではない。新しいことを理解する教養や、行動を起こす信念が欠かせない。
 椎根の石屋根倉庫がいい状態で保存されているのは、所有者たちが保存することの価値を早い時期に認識したからであり、またそれが島のために、地域のためになることを期待しているからだろう。
 椎根の石屋根倉庫は単なる観光用の建物ではない。どれもが現役であることを思うと、椎根の石屋根倉庫の保存は、きわめて長期のプロジェクトであることに気付く。そのスタートはいつだったのか。そして、それはいつまで続いてくれるのだろうか。
【地名の由来】 かつて「椎下(しいげ)」と呼んでいたのが、それが「椎根」に転じたとされている。椎の木が生い茂る山の下、ということだったらしい。否定的な意見もあるが。
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