1650年(慶安3年)、藩主が椎根川上流の山中における銀山開坑の願い出に許可を与えた、という記録が残されている。それから100年間銀山は続いたそうだが、それで村が潤ったかどうかはわからない。
1884年(明治17年)の『上下県郡村誌』の学校の項に、公立小茂田学区椎根分校/生徒男12人、女12人、とある。この時代に男女同数の生徒がいる学校は他になく、女性の教育にも熱心な、この地区の進取の気風を語る好例だ。それは椎根が、対馬の中では比較的余裕のある村だったということかもしれない。
同じ郡村誌で、物産として、米107石(中等)、大麦220石(中等)・・・とある。対馬としては量・質ともに素晴しいといえるだろう。それを可能にしたのが、椎根川下流域の埋め立て・開田・圃場改善で、木庭作が多い対馬の中では珍しく収穫量も多く、それが“比較的余裕”のベースだったのではないだろうか。