その目保呂ダムのさらに上流に、約80年前、約15年間だけだが村があった。大正の初め頃から国有林開拓の目的で移住してきた人々の村で、谷川沿いに散り散りに住み、合わせると約40軒にもなった。瀬田から村の入口まで約15km。そこには日用品の店もあり、仁田小学校の分教場として目保呂学校もつくられた。
伐採、苗木育て、植樹、林道づくり、製炭など、山の主要な仕事を担ったのは当時「豊後の山師」と呼ばれた人々だ。大分県の林業従事者の次男三男が多く、家族全員で仕事に当たった。冬の寒さをしのぐために、入山した朝鮮の人の家をまねて、床下にはオンドルもつくった。そんな村が目保呂村だ。
『上県町誌』によると当初は「迷暮路」と表記され、文字からも暗さが漂ったが、瀬田ダム建設以降に「目保呂」に変わったそうだ。(『上県町誌』では瀬田ダムについの説明はない)
開拓が終わる大正末期から昭和初期にかけて、多くの人が故郷に帰ったが、対馬に残る人もあったという。また、彼らの優れた椎茸栽培技術が、後の対馬の椎茸生産に貢献していると言う人も多い。