対馬全カタログ「村落」
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2024年2月11日更新
厳原町
【せ】
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高松羽左衛門が根付かせた
勤勉という美風は
今もこの村を助けている
「何でもあるけど、これと言って特徴がない」
 厳原市街からは南西へ直線距離で約12km。内山トンネルの開通、県道24号線、192号線の拡幅により、車で約20~25分と所要時間が大幅に短縮された。昭和40年頃はバスで内院、豆酘を回り、2時間半ほどかかったという。
 住民曰く「山の幸、里の幸、海の幸に恵まれ、とても暮らしやすい村」だそうだ。交通の便の改善によりさらに住みやすくなった。
 周辺で遺跡はまだ発見されてないが、昔から鉾大明神が祀られているところから、対馬に数社ある鉾大明神同様、かつては弥生時代の銅矛を祀っていたであろうと推測され、おそらく弥生時代以前からの村ではないかと考えられている。
 住民は自分たちが住む瀬のことを「何でもあるけど、これと言って特徴がない」と少々自嘲的に言う。名産もなければ、名所もない。なるほどそうだが、「佐須瀬」と「豆酘瀬」に分かれている。これが最大の特徴かも知れない。
瀬周辺地図:瀬川の右岸(北側)が佐須瀬、左岸(南側)が豆酘瀬   出典:国土地理院地形図(地名拡大、神社名等追加)、長崎県遺跡地図
佐須瀬と豆酘瀬
 村が瀬川を境に「佐須瀬」と「豆酘瀬」に分かれている。外部からの人間にとっては少々ややこしいのだが、最近は行政もひとまとめにして「瀬地区」として扱っている。
 豆酘瀬側にある妙躰神社が共通の氏神なので、かつては一つの村だったことは間違いないようだ。
 それが二つに分かれたのは、室町時代に全島を8郡に分けた際に、豆酘郡と佐須郡の境界線を瀬川にしたことが原因だった。
 16世紀末の朝鮮出兵にも、佐須党と豆酘党に分かれて従軍。江戸時代の開発は後述する高松羽左衛門が居住する佐須瀬が先行し、明治後は海域によい漁場のある豆酘瀬が漁業で発展するなど、微妙に差異が生まれた。
 ただし、婚姻等による住民の交わりは川を越え、親戚関係は双方に広がり、共存共栄の協力関係を築いている。
10月の佐須瀬(2023年):瀬川右岸、集落と海の間に広がる田畑が茂ノ原
10月の豆酘瀬(2023年):手前の集落が佐須瀬
給人 高松羽左衛門の功績
 瀬の歴史上最大のトピックは、江戸時代後期の高松羽左衛門の活躍だ。鎌倉時代から宗家に仕えてきた名家高松家の26代目高松羽左衛門は、瀬の発展に大きく貢献した。
 高松羽左衛門の最大の功績は、集落のある在家から海方向に広がる広い干潟、湿地を干拓し農地に変えた“茂ノ原の開き”だ。これによって久根浜の開きで知られる斎藤四郎治による18世紀前半の佐須瀬、豆酘瀬の荒地開発による収穫量アップに加えて、さらなる生産力向上を実現した。
 さらに、山の斜面には収量の低い木庭ではなく段々畑をつくったり、両作(二毛作)を導入したりと、当時の対馬としては画期的な農業政策を実行した。
 また、羽左衛門は自ら朝早くから働き、百姓の模範となっることによって、労働力の質の向上も図ったという。
 『佐須郷豆酘郷 給人奉公帳』によると、羽左衛門の生年は記録されていないものの、1788年(天明8年)に初めて下知を受け、翌年に「地方普請奉行見習役」を仰せつけられた。別の書で本人の話として、初めて下知役を拝命したのは18歳か19歳の頃、と書かれているので、生年は1770年頃ということになる。
 また羽左衛門は、当時瀬に寺がなかったので、久根田舎から寺を移したとも伝えられている。
『楽郊紀聞』と羽左衛門
 26代目高松羽左衛門については、江戸時代後期の対馬藩士の書『楽郊紀聞』に詳しく書かれている。それというのも著者である中川延良が羽左衛門と親戚で、羽左衛門の息子の高松伊織とも懇意だったからだ。
 羽左衛門の多くの逸話が残っているのは、中川延良の功ともいえる。13話ある羽左衛門のエピソードの中にはユニークなものもある。
 黒魚の汁を食べて「ああ、これを殿様に食べていただければ、(美味しくて)泣くだろうよ」と言ったことがある。この話を聞いて中川延良は、「野人の芹」に似ている、と綴っている。
 「野人の芹」とは「高貴な婦人が芹を食べているのを見て、野人が芹を摘んで捧げたが、その気持ちは伝わらなかった」という故事だ。中川延良は羽左衛門の思いは殿様には伝わらないだろうと思ったのだろう。
なかなか分かってもらえない羽左衛門
 「なかなか分かってもらえない」。実は、26代目羽左衛門はそう思うことが多かったのではないだろうか。
 佐須瀬で行ったさまざまなプロジェクトを他地でも実行しようとしたが、苦戦したようだ。28歳で地方普請奉行になったが、30歳でお役御免に。44歳の頃に郡奉行として返り咲き、大石阿吉並みの活躍を期待されるが、4年後に「不行届の義有之」と家から出ることを控えるように言われ、翌年には知行の3分の1を召し上げられ、家格も下げられた。
 「不行届の義」が何を指すのか不明だが、おそらく上役との衝突等ではないかと想像する。前述の「野人の芹」の“野人”だが、純朴な羽左衛門の性格を表わしているのではないだろうか。府中住まいの家老たちとお付き合いが苦手で、それが災いし、全島レベルの活躍ができなかったのではと想像する。
高松家3代目は元寇の戦いで戦死か
 1代20年で計算すると、高松家初代は1240年頃の生まれとなるが、実際はもう少し前に生まれたようだ。高松家の言い伝えでは、2代目の子供たち(3代目含む)が1274年の文永の元寇の際に、主人である宗資国とともに討ち死にしている。
 対馬で唯一残っている元寇に関する史料である、久根齊藤家の文書に「去文永蒙古襲来之時、定能親父兵衛三郎資定於対馬嶋佐須浦戦場、宗右馬允相共令討死」という一文があり、兵衛三郎資定が佐須浦の戦いで宗右馬允(資国)とともに戦士したことが明記されている。
 高松家3代目とその兄弟も齊藤資定同様、従軍し佐須浦に散ったのではないだろうか。
収穫量が約160年で1.5倍近くアップ
 対馬藩から各給人への通達文書を記録した『佐須郷豆酘郷 給人奉公帳』で26代目高松羽左衛門の功績を追うと、寛政11年(1799年)に「自分開地3尺4寸9分4厘4毛、坪付を以て、成し下さる」とあり、開きを完成させたことがわかる。
 18世紀前半には斎藤四郎治による耕作地拡張があり、18世紀末期に羽左衛門による開き(干拓)があり、さらに加えて小規模な開きがあったのだろう、佐須瀬は1.47倍、豆酘瀬は1.46倍、米麦の収穫量を増やすことができた。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
◎佐須瀬
田畑木庭物成22石余、戸数24、人口95、神社1、寺1、給人1、公役人12、肝煎1、猟師10、牛13、馬22、船7
◎豆酘瀬
田畑木庭物成21石余、戸数9、人口 、神社1、寺0、給人1、公役人6、肝煎1、猟師 、牛3、馬8、船2

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
◎佐須瀬
籾麦130石、家20軒、人口111人、男50人、女41人、10歳以下20人、牛18疋、馬24疋、孝行芋126俵
◎豆酘瀬
籾麦123石、家13軒、人口64人、男33人、女26人、10歳以下5人、牛12疋、馬27疋、孝行芋183俵
良い漁場は豆酘瀬側にあった
 かつては佐須瀬と豆酘瀬との境は川だけでなく、海の方まで伸びて存在し、良い漁場は豆酘瀬側にあったので、そこで漁をする権利は豆酘瀬にあったそうだ。
 昭和30年頃に五島の業者が定置網の権利を豆酘瀬地区から買い受け、15年ほどブリの定置網漁を操業。その後、替わって大洋漁業が定置網を継ぎ、さらに昭和50年頃には地区で生産組合をつくって事業を引き継ぎ、現在に至っている。
 昭和50年代はブリがよく獲れ、有名な俳優がテレビのレポーターとして瀬のブリ漁を取材にきたそうだ。大漁が続いた年は、組合員で四国の金比羅山詣りもしたという。
 港も徐々に整備されていき、最初は砂利石の浜だったが、コンクリートの船着場ができ、防波堤ができ、2000年くらいに現在の形になった。
 その後、ブリの不漁期に入り、往年の水揚げは見込めないが、ブリ定置網漁は現在も続いている。今でも水産業に従事する人は豆酘瀬の方が多いそうだ。
瀬漁港(2023年)
耕作放棄地の再生を地域ぐるみで
 佐須瀬、豆酘瀬とも、対馬の農村としては比較的耕作放棄地の少ない地区と言える。それというのも各家の跡取りが地元に残っており、他の地区と比べると人口の減少も少ない。
 だから可能なのかも知れないが、2017年作成の『瀬地区地域づくり計画書』において、「地域づくり基本計画」の一つとして「美しい農村風景のある地域づくり」を掲げ、耕作放棄地の再生事業に地域として積極的に取り組んでいる。
耕作放棄地再生計画実施プラン例(『瀬地区地域づくり計画書(2017年作成)』より):緑は耕作再開地、茶色は耕作再開予定地
瀬川の右岸も左岸も耕作放棄地が少ない(2023年)
今も継続されている3つの伝統行事
 『瀬地区地域づくり計画書』に地区の伝統行事として、花祭り、春祭り、亥ノ子、の3行事が記載されている。
 「花祭り」は、4月8日の釈迦の誕生日を祝う行事で、お寺で甘茶を振る舞うなど、対馬ではこの伝統の催しを維持している地区も多い。
 「春祭り」は、妙躰神社の祭事で、神事後に持ち寄った重箱の馳走を皆でいただくという。1960年(昭和35年)頃までは神様が出雲に出発することを祝う「お出ふね」、出雲から帰ってきたことを祝う「お入りませ」の行事もやっていたそうだ。その日は家から布団を持参し、食事後に参拝所で一緒に寝たという。
 11月に開催される子供中心の行事「亥の子」も、子供の人数は少なくなったが続けられている。瀬地区は石で地面を叩くタイプの“亥ノ子振り”だそうだ。
神社もしっかり祭られている
 「妙躰神社」は豆酘瀬側にあるが、佐須瀬の人々の氏神でもある。春祭り、秋祭りの時は、両方の瀬から人々が神事に参加する。参道の桜が美しく、花見には格好の地でもある。
 海のすぐそばにある「恵比寿神社」は、佐須瀬の海の神様。5基の鳥居がこれまでの信仰の篤さを伝えている。
 また、その横に令和2年に移設された「矛(ほこ=鉾)大明神」は豆酘瀬の海の神様。弥生時代の銅矛を祀っていたであろうと推測され、かつては漁で使用する銛を供えたそうだ。
 茂ノ原を見下ろす斜面にある小さな祠が「茂の神様」。旧8月15日の祭日には麦甘酒を供えてお祭りしたという。
 「山形八天宮」は佐須瀬の東にあり、村の守り神、山の守り神、また火伏せの神様として祀られてきた。
妙躰神社:祭神は素盞嗚尊ノ姫ノ神
恵比寿神社
矛大明神
茂の神様
山形八天宮
【地名の由来】 浦口に広い瀬があり、それを大瀬と言い、村名(浦名)も大瀬浦と言ったそうだ。それがいつの間にか略して「瀬」と呼ばれるようになった。
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