対馬全カタログ「村落」
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2023年1月16日
豊玉町
佐保
【さほ】
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海、山の幸に恵まれた村は
幕末期の二重公役を乗り越え
過疎にも柔軟に対応
付近一帯は遺跡の宝庫
 仁位浅茅湾から西北に深く切れ込んだ佐保浦の沿岸には、弥生時代の遺跡が多く、佐保が弥生時代以前からの村であることを語っている。浦口から列記すると、ソウザキ遺跡、唐船遺跡、佐保浦赤崎遺跡、クロキ南鼻遺跡、唐崎遺跡、キロスガ浜遺跡、イノサエ遺跡、シゲノダン遺跡となる。この中で特に貴重とされているのが、シゲノダン遺跡ではないだろうか。
 長崎県の公式ホームページ内「遺跡大辞典」には、シゲノダン遺跡の説明として次のように書かれてある。
 「遺跡は佐保川西側の丘陵先端部に位置する。1974年耕作中地主によって偶然発見された。遺物の配置状況について九州大学が聞き取りを行った結果、何らかの遺構に伴うもので無く、露出状況であった事から埋納遺跡である可能性が指摘された。土器の出土が無いことからはっきりした時期比定は出来ないが、貨泉(古代中国の銅銭)や舶載青銅器、国産の中広銅戈の特徴から弥生時代後期の可能性が高い。なお、遺物は国が発見者から直接買い上げ、現在国立歴史民俗博物館に収蔵されている。」
 「埋納遺跡」とは、保管のためにそこに埋めていたものが発掘されたということ。いつかの時代、どこか付近の遺跡の出土品がそこに埋められていた、ということかも知れない。レプリカが豊玉町郷土館に展示されている
佐保周辺地形図:西側の海岸も佐保地区。そこで採れる藻が肥料となり、豊かな田畑をつくった 出典:国土地理院地形図(村名・地名拡大、遺跡・史跡を記入)
佐保地区の中心集落
「海で半年、山で半年」の村
 中世の佐保は、室町時代の朝鮮の書『海東諸国紀』にあるように、200戸を擁した大きな村だったようだ。浅茅湾内のいくつかの村がそうであるように海外通交の拠点の一つだった。
 佐保のことは『豊玉町誌』に詳しく載っている。約40ページにわたって語られていることの多くは江戸時代のエピソードだ。
 まず、江戸時代に佐保は干拓(開き)が盛んで、開田は仁位郷の中心である仁位よりも早かった。その要因の一つに対馬ではまだ木庭作中心の14世紀初頭に、すでに佐保では水田で米を作られていたことが挙げられる。
 1671年(寛文11年)から始まった佐保の開田事業は、1677年(延宝5年)の開発期間中の税の免除を含む新令によってさらに拍車がかかった。
 また、佐保は佐野網の請浦*で、さらに朝鮮海峡に面する西海岸には広大な磯場を持っており、海産物が豊富に採れた。まさに佐保は「海で半年、山で半年」の村。海でも稼げ、山(陸)でも稼げるという、恵まれた環境だった。実際に1884年(明治17年)の『上下県郡村誌』でも、米は53石で豊玉では仁位に次いで2位、ワカメは8,316斤で千尋藻に次いで2位だった。

※大阪の泉佐野から対馬にやってくる地引網漁船団に浜を貸し、藩への運上銀の納入を代行するなどのサポートも行い、報酬を得た
佐保浜の開きによって干拓された農地
藩支配ではなく地頭支配の地頭村に
 文政4年(1821年)、佐保は公領地ではなく、暢孫(ながつぐ)家の私領「地頭村」となった。その初代地頭となった暢孫志摩は藩主宗義質(よしかた)の異母弟で、世継ぎ紛争を避けるために宗籍から離脱して家臣となることを表明。藩主からその見返りとして、「暢孫」という名字とともに、佐保村を知行地として与えられた。
 領地内の百姓はすべて地頭の支配下に組み込まれ、年貢や公役銀は地頭に納めることになった。これだけならいいのだが、何故か藩の公役は免除されないまま、地頭家への日々の納め物や地頭から課せられた労働が加わった。つまり、二重公役。百姓たちにとっては災難でしかなかった。
 廃藩置県が施行される明治4年(1871年)までのほぼ50年間、佐保は仁位郷で唯一の地頭村であった
かつて奴加岳村の中心として  
 1908年(明治41年)4月から、沖縄県及び島嶼町村制が施行され、対馬は2郡1町12ヵ村に分けられた。元豊玉町区は「仁位村」と「奴加岳村」に分けられ、奴加岳村の村役場は佐保に置かれた。
 上島の浅茅湾沿岸は、位置的にみて中央部の中心は仁位が、西部は佐保が適当と判断されてのことだった。発足当初の奴加岳村の戸数は378戸、人口は2,280人で、ほぼ仁位村と同等だった。
 奴加岳村の村名は、応永の外寇時に、朝鮮軍の侵攻をはね除けた「糠岳の合戦」の古戦場にちなんだもの。1955年(昭和30)年3月の豊玉村誕生まで47年間、佐保は上島浅茅湾沿岸西部の中心として機能した。
    地頭村時代の苦労へのねぎらいかのように、奴加岳村の主邑として50年弱、晴れやかな日々を刻んだのだった。
奴加岳村役場跡と記念碑(左下)
耕作放棄地が見当たらない村
 江戸時代、農地の開発が早かった佐保は、元禄の頃には1人当たり籾麦の量が約1.5石(10歳以上で計算)と、当時の対馬の村としては多めの生産量を誇った。
 幕末期になると、さらに開発が進んだのだろう、籾麦の生産量が388石と元禄時代の1.4倍。1人当たりの量も約2.3石(10歳以上で計算)となり、暮らしにも余裕が生まれたのではないだろうか。
 しかし、最近ではそのかつて先祖が開発した農地を持て余す村が増えてきた。過疎化、高齢化が原因だが、対馬でもかつての美しい田園風景を失ってしまった村は多い。
 但し、佐保においては上空からの写真を見てもわかるように、水田や畑は美しい緑で覆われている。ビニールハウスも9本もあり、しっかり農業が営まれている。対馬では貴重な過疎化にうまく対応している村といえそうだ。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約69石、戸数30、人口140、神社1、寺1、
給人2、公役人15、肝煎1、猟師7、牛27、馬7、船5

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦388石、家32軒、人口152人、男72人、女53人、10歳以下27人、牛27疋、馬21疋、孝行芋1,850俵
海岸に近い浜の方では新たな取り組みが行われている
【地名の由来】狭い浦=狭浦を「さほ」と読んだのではないかという説が有力。確かに佐保浦は狭い。「狭」は「狭山(さやま)」などの地名で知られるように「さ」と読まれ、「浦」は音読みで「ふ」「ほ」と読まれる。対馬では「浦」を「ほ」と読む例が多いそうだ
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