1908年(明治41年)4月から、沖縄県及び島嶼町村制が施行され、対馬は2郡1町12ヵ村に分けられた。元豊玉町区は「仁位村」と「奴加岳村」に分けられ、奴加岳村の村役場は佐保に置かれた。
上島の浅茅湾沿岸は、位置的にみて中央部の中心は仁位が、西部は佐保が適当と判断されてのことだった。発足当初の奴加岳村の戸数は378戸、人口は2,280人で、ほぼ仁位村と同等だった。
奴加岳村の村名は、応永の外寇時に、朝鮮軍の侵攻をはね除けた「糠岳の合戦」の古戦場にちなんだもの。1955年(昭和30)年3月の豊玉村誕生まで47年間、佐保は上島浅茅湾沿岸西部の中心として機能した。
地頭村時代の苦労へのねぎらいかのように、奴加岳村の主邑として50年弱、晴れやかな日々を刻んだのだった。
江戸時代、農地の開発が早かった佐保は、元禄の頃には1人当たり籾麦の量が約1.5石(10歳以上で計算)と、当時の対馬の村としては多めの生産量を誇った。
幕末期になると、さらに開発が進んだのだろう、籾麦の生産量が388石と元禄時代の1.4倍。1人当たりの量も約2.3石(10歳以上で計算)となり、暮らしにも余裕が生まれたのではないだろうか。
しかし、最近ではそのかつて先祖が開発した農地を持て余す村が増えてきた。過疎化、高齢化が原因だが、対馬でもかつての美しい田園風景を失ってしまった村は多い。
但し、佐保においては上空からの写真を見てもわかるように、水田や畑は美しい緑で覆われている。ビニールハウスも9本もあり、しっかり農業が営まれている。対馬では貴重な過疎化にうまく対応している村といえそうだ。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約69石、戸数30、人口140、神社1、寺1、
給人2、公役人15、肝煎1、猟師7、牛27、馬7、船5
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦388石、家32軒、人口152人、男72人、女53人、10歳以下27人、牛27疋、馬21疋、孝行芋1,850俵
【地名の由来】狭い浦=狭浦を「さほ」と読んだのではないかという説が有力。確かに佐保浦は狭い。「狭」は「狭山(さやま)」などの地名で知られるように「さ」と読まれ、「浦」は音読みで「ふ」「ほ」と読まれる。対馬では「浦」を「ほ」と読む例が多いそうだ