2023年1月28日
美津島町
大山
【おやま】
今は静かな真珠の村だが
かつては海の領主・大山氏に
率いられた海民の村
まさに真珠養殖の村
国道382号を逸れ、5分ほどで大山(おやま)地区に着く。対馬の真珠三大産地の一つと言われる大山だが、村に入っても真珠養殖の気配はない。そのまま海岸に沿って走り、右手に伸びた小さな半島の岬「戎鼻」を回ると、突然、この村の全容を理解することになる。
浦の名前は「家深浦」。そこに浮かんでいるのは作業小屋を載せたイカダで、5床は並んでいる。つまりここに真珠養殖会社5社がひしめき合っている、密集している、そんな感じだ。大山が真珠養殖の村だと実感させてくれる。
また、中世の頃は大山の人たちの本拠だったと言われる「和田ノ浦」には、対馬真珠養殖の最大手であり、対馬真珠の礎を築いた北村真珠養殖(株)の大山養殖場がある
半島の山稜によって仕切られる、仕事空間と居住空間
大山は由来は御山(おやま)=浅茅山
「大山」と書いて「おやま」と呼ぶ。「おおやま」が縮まって「おやま」になったのかも知れないが、1471年(文明3年)の『海東諸国紀』には「吾也麻」と記されており、当時から既に「おやま」であったことがわかる。
地名の由来となった山は、大山地区の南東にそびえ、万葉集でも詠われた対馬の名山の一つ浅茅山(あさじやま)。標高187.6mの山だが、低山が多い浅茅湾沿岸では一際大きく、目立つ。だから「大山」であり「御山」であった。現在の地図には大山岳と記されているが、「浅茅山」と呼ばれることが多いようだ。
大山地区はその西に伸びる稜線が浅茅湾に沈む麓にある。
標高は低いが存在感がある大山岳(浅茅山)
近世初期に廃村になった和田ノ浦とは
かつて大山は和田ノ浦にあったと言われている。大山周辺に古墳がなく、和田ノ浦に古墳が多いことがそのことを裏付けているように思える。
和田ノ浦だけでなく、地峡をはさんだ東側の入道ヶ浦にも古墳が多い。弥生時代のものもあれば中世のものもあるという。このことから古代からの交易路して、入道ヶ浦―和田ノ浦ルートが存在し、それによって和田ノ浦が繁栄を謳歌したと考えられている。
和田ノ浦は「和田浦万古」と呼ばれる倭寇の首領がいたと言われている所。1419年(応永26年)の応永の外寇で朝鮮に攻められ、壊滅的な打撃を被り一時廃墟になったと言われているが、その後復旧したようだ。
1438年(永享10年)に「文引(朝鮮への渡航許可書)」の制が始まり、文引が小船越で発行されるため、入道ヶ浦―和田浦ルートは利用されなくなった可能性が高い。1471年の『海東諸国紀』に「完多老浦(わだのうら)」100余戸と記されているが、復旧はしたものの往時の勢いは戻ってこなかったようだ。
大山周辺地図:周辺は地峡部が多く、簡単に陸を越えられることが、この地域の発展の礎となったのではないだろうか 出典:国土地理院地形図(地名拡大等)
中世の情報源『大山小田文書』
1471年(文明3年)の朝鮮の書『海東諸国紀』には大山300戸余と記載されており、かなり過大評価の数字だがそれも繁栄ゆえだろう。その頃、和田ノ浦は100戸余だから、この数字がかなり大雑把な数字であったとしても、二つの村の逆転が起こったのは間違いないようだ。
大山の繁栄を築いたのも和田ノ浦に引き続き大山氏(後の小田氏)だが、大山(小田)氏には鎌倉時代から安土桃山時代に至る約280年の間に島主宗家から送られた文書が48通残されており、『大山小田文書』と呼ばれている。
大山(小田)氏の繁栄を伝えているのはもちろんだが、当時の対馬の産業や政治状況を反映しながら、朝鮮半島と九州との交易関係など、興味深い内容が記されており、学術的価値が高いと言われている。
室町時代、大山の繁栄
南北朝時代(1337年 – 1392年)が終わってしばらく経った1401年(応永8年)に、宗氏本家に対して分家である仁位宗氏が反乱を起こした。「宗賀茂の乱」だ。
大山氏は仁位宗氏と主従関係があったが、その時は反乱軍に加わらず静観。乱が鎮圧されると、本家と主従関係を結んだ。日和見とも思える行動だが、島主 宗貞茂に厚遇され、直轄地の代官に起用されるなど、その後の大山(小田)氏の発展の礎となった。
1404年(応永11年)の『大山小田文書』には、対馬全海域におけるイルカやマグロなどの“大もの”の漁獲に対する税の徴収を任ずるものもある。自ら網漁や製塩業、交易業を経営する一方、宗氏家臣として大役を担うようになり、より勢力を拡大させたことがわかる。
しかし、倭寇を押さえ込んでいた貞茂が亡くなると、たがが外れたように倭寇が再発生し、前述したように1419年(応永26年)に浅茅湾一帯が朝鮮に攻められることになる。
在地領主として水軍を擁していた大山(小田)氏も倭寇とみなされており、和田ノ浦をはじめ、多くの拠点を攻撃された。
また、15世紀後半に、大山氏は小田氏と姓を改めた。それが『大山小田文書』の中で確認できるのは1474年(文明6年)からだ。
江戸時代の大山
江戸時代になると、浅茅湾は洲藻の俵家と大山の小田家の二大勢力が牛耳っていたそうだ。大船越水道の警備や水道を通る際の帆別銭(通行料)の徴収も任されていた。
しかし、大山村自体は元禄時代、戸数22戸、人口95人(10歳以下含まず)、物成(年貢)30石程度の小さな村だった。ただ給人が3人もいた。もちろん1戸は小田本家だ。
約160年後の文久期になると、籾麦の生産高が255石と、2倍以上になっている。これは享保年間に大山領である玉調に、肥前田代の農民が移住し水田を開いたことによるものだろう。それにより大山も潤ったのではないだろうか。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約30石、戸数22、人口95、神社1、寺1、
給人3、公役人8、肝煎1、猟師4、牛9、馬0、船6
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦255石、家24、人口105、男44、女45、
10歳以下16、牛18、馬5、孝行芋1,200俵
その後の大山
明治以後の大山に関しては、情報は多くない。1978年(昭和53年)発行の『美津島町誌』に民俗関係の情報は多いものの、各分野の歴史をたどるためのデータ情報が少ないことも一因だ。
1939年(昭和14年)、和田ノ浦に北村真珠の大山養殖場が開設された。この当時、真珠養殖は、新しい産業ではあるものの、将来ビッグビジネスになる産業としては認知されていなかったようだ。
「対馬真珠」のページで詳しく述べているが、対馬で真珠養殖がもの珍しさではなく、将来性のある産業として脚光を浴びるようになったのは、第二次大戦後、1950年(昭和25年)から。前年に漁業法が改正されたのが切っ掛けだった。
その後、真珠養殖業界では、操業区域の分割調整をはじめ様々な利害調整に苦渋しながらも、次第に安定化に向かい、共存共栄の道をたどっている。大山の養殖業者も中心的な役割を担い、新たな問題にも積極的に取り組んでいる。
【地名の由来】 本文参照
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