対馬全カタログ「村落」
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2023年5月27日更新
美津島町
尾崎
【おさき】
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交易&倭寇基地として栄えた
中世から500年。今、
マグロ養殖で新たな時代へ
遺跡はあるが、出土品は中世以後
 おそらく弥生時代以前から人が住んでいたであろうと考えられているが、古墳時代も含め、古代の遺跡は確認されていない。付近で古墳時代の遺跡が確認されているのは、加志浦より東だ。
 浅茅湾の地図を見ればわかるように、浅茅湾は東側が閉じ、西側が大きく開いていた(江戸時代に大船越瀬戸を開削するまでは浅茅湾東側は閉じていた)。そして湾の入口となる大口瀬戸は、「大口」という名の通り瀬戸とは言えないほど対岸と距離(約3㎞)があり、遮るものがないので波も高い。
 その大口瀬戸の南の半島の陰にある尾崎は、西風は防げるものの、それ以外の方向から風が吹けばそれなりに荒れる。つまり、守られている感が少ない。弥生時代や古墳時代の船なら、やはりここを本拠地とするのは不安だったのではないだろうか。
浅茅湾地形図  出典:国土地理院地形図(地名拡大、名所追加等)
中世、外洋通交の中心として発展
 中世になると凌波性(波をしのぐ性能)に優れた、荒天に強い船が普及。外洋に出ていく船が増えると風待ちの港として価値が高まり、次第に定住する人々が増えていったようだ。
 それとともに地の利を活かして交易業の拠点として活路を見いだしたのではないだろうか。
 その交易商がいつ「倭寇」という略奪集団の一面を持つようになったかは明確ではないが、尾崎は倭寇の基地として知られるようになっていった。
「土寄早田」としてその名を馳せた、早田左衛門太郎
 現在、「倭寇」は対馬の負の一面として語られることが多い。確かに略奪は許されるべき行為ではないが、かつて新羅海賊が対馬や北九州を襲ったように、当時の日本が武士の時代、戦いの時代であったように、時代によっては生存のために“他を襲う”という行為のハードルが低くなる。そういうことではないだろうか。
 室町時代の対馬の最大の交易商であり倭寇の頭領として有名な早田左衛門太郎(そうだ さえもんたろう)は、一時期は島主であった宗家よりも勢力を持ったと言われている。
 一時朝鮮に帰化し、受職人として官職も与えられた。その後、対馬に戻り、交易業や倭寇の頭領として勢力を拡大し、一時代を築いた。
 しかし、倭寇活動に目に余るものがあると、1419年(応永26年)、朝鮮から征伐軍を送られ、早田氏の拠点である土寄ほか、浅茅湾一帯の倭寇の拠点は壊滅的な打撃を被った。
 早田左衛門太郎は1428年頃に没し、その事業は子の六郎次郎に受け継がれた。六郎次郎は琉球、対馬、朝鮮を結ぶ交易ルートを確立し、琉球経由で東南アジアの陶磁器などを対馬や朝鮮にもたらした。
 また、早田家に伝わる朝鮮王朝から役職を任命する「朝鮮国告身」は国指定重要文化財となっている。 
早田氏系図:あくまでも朝鮮側の記録から推定したもの  出典:『水崎(仮宿)遺跡:美津島町文化財保護協会調査報告書第1集』より
早田家だけじゃない尾崎の地侍(土着武士)
 尾崎では早田家が有名だが、その他に、小島家、日下部(草鹿部)家、それに室町時代初期から早田家と近い関係にあった言われる中尾家があり、早田家と同じく、朝鮮との交易を生業としていた。
 江戸時代になると地侍がそのまま藩に仕える給人となり、早田家1軒,中尾家3軒,小島家1軒,日下部家3軒に、加志出身であろう井家1軒と、給人家は9戸もあった。
尾崎の旧4集落と遺跡  出典:国土地理院地形図(旧地名、遺跡等を記入)、長崎県遺跡地図
中世の遺跡には、タイやベトナムの磁器も
 尾崎で最も有名な中世の遺跡、水崎(仮宿)遺跡は尾崎地区北端の平坦地にある。1996年、2000年に発掘調査が実施され、中世の輸入陶磁器や国産陶磁器、中国銅銭などが出土した。
 中国銅銭の中には、日本国内では3例目となるパスパ文字で書かれた大元通貨や、博多や琉球では通貨としても使用された大銭などもあったそうだ。装飾品としては、メノウ製の石帯も出土している。
 遺跡は8層からなり、14世紀後半から15世紀前半頃に一つのピ−クがあったと考えられている。また、備前焼・信楽焼の甕が出土していることから16世紀も遺跡として継続し、さらに17世紀前半頃まで継続している事が確認されている。
 尾崎では他にも、大連河内遺跡、尾崎前原遺跡、猪ノ浜遺跡が確認されており、水崎(仮宿)遺跡同様、中世の遺物包含地として分類されている。
水崎(仮宿)遺跡:案内板周辺だけでなく広いエリアが遺跡として推定されている
江戸期に給人が多かったのは、やはり倭寇が原因か
 『美津島町誌』によると、明治初め頃の尾崎は、士族(江戸期は給人・足軽)は18戸、本百姓(江戸期は公役人)18戸だそうだ。本百姓は元禄時代からほとんど変化がない。給人は天保期(1830~1844年)までは9戸だったが、その後、藩への献金や、幕末から明治にかけて多かった士族株の売買で増えたのかも知れない。
 それにしても給人の多さが目立っている。『美津島町誌』には、「かくも多数の士族が配置されたのも此の地が対馬の中で如何に重要な地であったかを物語るものといえよう」と書かれているが、江戸時代を通して給人であった9戸のうち8戸は、尾崎で交易に活躍した土着の侍だった。
 給人の多い地区は尾崎に限ったことではないが、かつて朝鮮半島との交易に関わっていた村に多い。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約80石、戸数36、人口187、神社1、寺5、
給人9、公役人17、肝煎1、猟師3、牛25、馬13、船10

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦348石、家44、人口200、男88、女83、
10歳以下29、牛43、馬54、孝行芋810俵
幕末の外国船騒動は、尾崎から始まった
 1861年のロシア軍艦ポサドニック号の事件は有名だが、実はその2年前の1859年(安政6年)4月、イギリス軍艦アクテオン号※が尾崎浦に碇を降ろし、食料の供給などを求め20日間ほど停泊した。その間、島内は大騒ぎだったそうだ。
 また、その時に乗組員が端船(はしけ)を乗り回したり、上陸し調査のようなことを行ったようだ。その他に40人ほどで白嶽登山を行ったり、別の日に山に入った二人が道に迷って遭難したが、今里の村人に助けられ無事に帰艦したというエピソード的な事件も起こった。
 彼らの要求は、青豆、青菜、鶏、鶏卵、牛、土鳩、牛、炭、水などであったが、牛以外は受け入れ、早く退去するように求めたそうだ。
 その年の11月に今度は2隻のイギリス軍艦(1隻はアクテオン号)が尾崎浦に来航したが、今度は幕府の指示を後ろ盾に強い姿勢で臨んだので、1週間後には退去したそうだ。

※アクテオン号は日本の書籍では「英国軍艦」として紹介されているが、その実態は地理学、生物学、測量などの専門家を乗せた620トンの「調査船」だった。端船を乗り回しながら測量や潜水を行い、海底の生物なども調査した。その成果物は大英博物館のコレクションの一部になっている。
近世最大の対馬の危機、ポサドニック号事件
 1861年(文久元年)2月、ロシア軍船・ポサドニック号が尾崎浦に投錨した。乗組員360人の大型船なので、尾崎浦のような開けた浦が停泊するには適当であり、浅茅湾に入ってすぐに目に入る村でもあったからだろう、今回も尾崎だった。
 ポサドニック号は、船を損傷したので浅茅湾で修理することを申し出た。藩は尾崎浦近くでの修理を許可したが、ロシア側は強引に芋崎浦の「大瀬の浜」に船を停泊し、小屋を建て、井戸を掘り、最後は土地租借を申し入れてきた。
 その後、乗務員が端船で大船越の水路を無理やり通ろうとする時、それを止めた番所役人に向けて拳銃で発砲し一人を死亡させ、さらに二人をポサドニック号に連行するという事件が発生した。
 連行した二人の解放、修理大工および木材の調達等、ポサドニック側との交渉のため、対馬藩は拠点を尾崎、黒瀬に置き、交渉に当たらせた。
 最後は、2隻のイギリス軍艦が浅茅湾に現れ(7月22日~24日)、ロシア船を牽制。その後、北海道の函館で幕府とロシアの間で交渉が行われ、8月15日にポサドニックは半年ぶりに浅茅湾を出ていくことになるのだが、対馬が占領されるかも知れないという最大危機だった。
ポサドニック号が停泊した芋崎浦・大瀬の浜:尾崎は写真右上隅のさらに右になる
明治以後は漁業の村として発展
 江戸時代は対馬藩によって漁業が禁止されていたが、明治になりそのタガが外れると、尾崎は漁村へと変身し、現在に至っている。
 対馬暖流と大陸沿岸水が交錯して形成される好漁場に近く、イカ釣りを中心に曳縄や延縄、アナゴを対象としたかご漁に携わる船が多かったそうだ。
 養殖業も盛んで、ブリ、ヒラマサ、タイ等の養殖が以前から営まれてきたが、1999年(平成11年)に大きな転換が訪れた。
現在はマグロ養殖。ブランド名は「トロの華」
 現在、尾崎といえばマグロ養殖が有名だが、その切っ掛けは、沖縄のマグロ養殖業者がヨコワ (マグロの幼魚 )の獲れる対馬に注目し尾崎に交渉にきたことで、1996年(平成8年)のことだった。しばらくは注文に応じ、集めた稚魚を餌付けして沖縄に運んでいたそうだが、尾崎の入江は潮通しが良く水深が深いので、台風でも大きな影響を受けにくく、マグロ養殖に最適。ここでもマグロ養殖が可能ではないかと、尾崎の漁師たちは新たな挑戦を始めた。
 マグロは出荷できる目安の35kgになるのに3年かかるそうだ。1999年(平成11年)にスタートだが、出荷は2002年(平成14年)だった。
 初出荷で気付いたのが、業者によって肉質にバラツキがあるということだった。原因は餌の種類や配分の違いだった。そこで、それらを統一してどの生簀のマグロでも同じ味になるようにして地域ブランドとして売りだそうと、「トロの華生産者協業体」が発足。「トロの華」が誕生した。
 その後「トロの華」は順調に売上げを伸ばしていったが、資源保護が謳われ、完全養殖のマグロが登場してきた昨今、持続可能なマグロ養殖をめざして新たな挑戦が始まっている。
尾崎の沖はマグロ養殖の生簀が所狭しと並ぶ
確認のために組み立てられた新しい生簀枠とフロート
参道が海中に沈む、都々智神社
 沈下参道で知られる都々智神社は、かつては半島の先端・郷崎近くの郷崎浦にあった(「浅茅湾地形図」参照)。室町後期の朝鮮の書『海東諸国紀』に「可吾沙只浦(郷崎浦)神堂有り」と書かれるほど有名だったようだ。
 「郷崎大明神」として尾崎の人々の信心を集め、「郷崎様」と呼ばれ、その信仰は暮らしの中に息づいてきた。
 3月29日の「郷崎様参り」は神主と村の主立ったメンバーが山道を越え、ある時からは軽四トラックで山越えをして郷崎浦に向う。そして、掃除をしてからお参りをし、御神酒(おみき)をいただくという行事を何百年も続けてきた。
 途中の山道が悪路となり危険と判断され、2020年(令和2年)に大島の遙拝所を本社とすべく遷座し、改めて「都々智神社」として祀られることになった。同時に、土寄の天神神社、中の町(大連河内)の八幡様を合祀した。
 その際に埋立地と橋で結ばれ、満潮になると参道が消えるという非日常性や、写真映えの魅力は減少したが、地区の人々にとってはいつでも安全に参拝できる氏神様となった。
遙拝所の頃の都々智神社。まだ埋立地と繋ぐ橋が架かっていない(2003年)
満潮になると旧参道は海面下になる
都々智神社由緒板
【地名の由来】「尾」には山の裾の伸びた所という意味があり、「崎」は陸地の先端をさす。佐須地方から北に延びた山脈の終端地として、「尾崎」と命名されたという説一択のようだ。
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