2024年2月11日更新
上対馬町
大浦
【おおうら】
かつて朝鮮侵略で荒廃するも
今や北のショッピング基地、
舟ぐろう保存活動の拠点
北部最大のショッピングゾーンが誕生
今や対馬の北部において、大浦の存在感は比田勝に次いで2番目と言えるのではないだろうか。何といっても、佐護以北に住む島民にとって日々の食材や日用品がそろう「スーパーバリュータケスエ」の存在が大きい。
1998年(平成10年)12月、「バリュースタジアム」がオープン。「スーパーバリュータケスエ大浦店」をはじめ、ホームセンター、ブックセンター、衣料館、リカーショップが入る上島初の一大ショッピングゾーンとして大々的にデビューした。さらに1999年(平成11年)には介護老人保健施設 結石山荘が隣地に開設され、対馬の商業、介護の拠点として島民の暮らしをサポートしている。
大浦周辺地図 出典:国土地理院地形図(地名追加、地名拡大等)、長崎県遺跡地図
対馬では珍しい人口増加の村
「バリュースタジアム」の誕生は地域社会に大きな変化を生じさせた。その一つが人口減少が当たり前の対馬において、極めて珍しく人口が増えたということだ。
1995年、2000年の大幅な人口増加は、陸上自衛隊と消防署の職員の居住が主要因だが、2015年232人から2020年241人への増加は、やはり暮らしに必要なものが手に入るという大浦の住みやすさが要因と考えられる。
近年の大浦の人口と世帯数の推移
朝鮮との交易に活躍、大浦宗氏
大浦は、かつて「宗」を名乗ることを許され、室町時代に朝鮮交易で活躍した宗茂次、宗茂実(しげざね)父子の在所だ。中世を描いた歴史書は彼らを「大浦宗氏」と表現し、朝鮮との貿易特権を取得するために巧みに朝鮮王朝にアタックし、成果を得ていたことを記述している。
1546年(天文15年)に宗姓の一斉改姓が実施され、土地の名を姓にして「大浦氏」に変わったが、大浦氏には本家と分家の2つの系統があった。
宗茂次の家は分家の方で、大浦の枝村だった中ノ河内に住んでいたので、1650年(慶安3年)に中ノ河内が左河内と合体して河内村となってからは「河内大浦氏」と呼ばれた。
ちなみに大浦に住んでいた本家大浦氏は、歴史書では「河内大浦氏」と差別化するために「大浦大浦氏」と表現されている。
文禄の役の大浦
「壬辰倭乱」と韓国で呼ばれ、日本で「文禄・慶長の役」と呼ばれる豊臣秀吉の朝鮮侵略は、対馬に、特に北部の豊崎郡、特に大浦と河内に多大な負担を強いた。
文禄の役の第一軍(小西行長・宗義智)が、大浦から出陣したのは1592年(天正20年)4月12日。 対馬藩としては5000名割当のところ2700名が組織された。不足の2300名は、農民などから徴集されたという。この地からは大浦党として60名が従軍したそうだ。
防御用の軍事施設として撃方山(うつかたやま)と河内側の結石山の頂上に城(実際は砦程度)が築かれ、大浦一帯は兵站基地となり、河内には倉庫も建てられた。
撃方山(うつかたやま)
兵に取られ、村は荒らされ
文禄・慶長の役では、河内には軍目付・毛利高政が駐屯し、浦々には兵站用の倉庫が建てられた。諸国の武将が駐留した大浦は、大混乱だったに違いない。荒ぶる兵によって村々は無法状態となり、それを抑えるために毛利高政は禁令を出した
「竹や木を切ってはならない。収穫した魚を押し買いしてはならない。無理矢理女を捕らえてはならない。馬を借りてはならない。押し売り・押し買いをしてはならない。犬・鶏・猫を取ってはならない。大工を取ってはならない、道具を取ってはならない。」具体的に禁止されたこれらの全ては、おそらく実際にあった非法行為なのだろう。
秀吉の死によって慶長の役が終わると、対馬は戦死や逃亡によって人を大きく失ってしまった。とりわけ大浦と河内は大部分の男が帰らぬ人となってしまい、悲惨な状況だった。
復興から安定へ。江戸時代
戦後、大浦をはじめ荒廃してしまった豊崎郷の村々には特別な施策が講じられたが、復興はなかなか進まなかったようだ。
それでも半世紀後の1645年(正保2年)になると米麦の生産量はかなり回復し、物成(年貢)高で大浦は豊崎郷で舟志に次ぐ96石だった。
しかし、『元禄郷村帳』1700年(元禄13年)のデータでは、物成高は66石(収穫量263石)と大幅に減っている。1650年(慶安3ね)の河内村誕生によって枝村だった中ノ河内の分が消えたためだ。
160年後の1861年(文久元年)には収穫量が300石と14%増えている。開きや発し(おこし)、できることはすべてやったはずだが、限られた土地、当時の土木技術ではこれが精一杯だったのかも知れない。
元禄の給人数は7人。公役人も7人と同数で、給人の多さも大浦の特徴だ。それは幕末期も変わらず、給人は12人と増え、14人の鰐浦に次いで、対馬藩八郷でも2番目に多い。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約66石、戸数30、人口107、神社1、寺1、
給人7、公役人7、肝煎1、猟師4、牛9、馬5、船3
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦300石、家27、人口168、男71、女73、
10歳以下24、牛24、馬24、孝行芋1,745俵
上対馬高校舟グロー大会と大浦区舟グロー大会
1988年(昭和63年)から1994年(平成6年)にかけて「全島舟ぐろう大会」が開催され、全島で舟ぐろう熱が高まったが、第6回上県町チームの優勝で幕引きとなった。
その数年後に、当時の上対馬高等学校のPTA会長のアイデアで、高校生たちに教育の一環で舟ぐろうを体験してもらってはどうかという提案がされ、1999年(平成11年)に「上対馬高校舟グロー大会」が開催された。その後、毎年開催されるようになり、さらに一般参加が可能な「大浦区舟グロー大会」も同時開催されるようになり、対馬の名物行事になった(現在「大浦区舟グロー大会」は隔年)。
競漕の会場は、堤防で囲まれた漁港内。コース長は100m超と、男女混成なので短距離。地区として「舟グロー保存委員会」をつくり、長く継続できるよう取り組んでいる。
2023年の「大浦区舟グロー大会」には大浦地区から2チーム、河内地区から1チーム、武末グループ1チーム、高校の保護者1チーム、卒業生1チームの計6チームが出漕したそうだ。
艇庫に収納されている舟ぐろう船2艇:右側に予備の櫓が多数並べられており、長期保存の意気込みがうかがえる。月に1回、乾燥を防ぐための潮掛けは区長の役目だそうだ
櫓漕ぎ船で朝鮮海峡横断の快挙!
河内地区のある漁師の思い付きで始まった一大イベントが「櫓漕ぎ船による朝鮮海峡横断」だった。このプロジェクトに乗ったのが河内と大浦の漁師を中心とした23名で、その中の漕ぎ手18名は約2カ月の練習を重ね、待ち構えているであろう困難に臨んだ。
1987年(昭和62年)午前6時に河内をスタートした一行は潮の流れに苦戦しながらも、午後3時5分に釜山に到着。所要時間は9時間5分だった。その経緯は記念本『絶海を渡る』に詳細に記され、記念碑が結石山森林公園の駐車場入口近くに建てられている。
その1年後に、泉の漁師たちが中心となって、2艘の櫓こぎ船で海峡横断に挑戦。前年の記録を45分短縮するという好記録で目的を達成した。スーパーバリュータケスエの駐車場の国道側に展示されている2艘の船がその時の船だ。
1987年の朝鮮海峡横断達成記念碑
祭神は大国主ノ神と禅祐坊、大地主神社
大浦の氏神として祭られ、祭神は阿比留在庁時代の副将軍といわれた阿比留禅祐坊が信仰した大国主ノ神。かつて禅祐坊を祀った祠もあったが、それを合祀したのが現在の大地主神社だそうだ。大浦氏が阿比留氏の後裔であることからして納得の由緒だ。(祭神を禅祐坊のみとする説もあるが、それだと後述する感謝祭(お入りませ)との整合性がとれない)
また、禅祐坊を祀っている豊、古里の地主神社、唐舟志の今宮神社、舟志の今宮副将軍社などの総社的な神社とも言われ、よって大地主神社と呼ばれている。
大地主神社の祭典は年に3回行われ、2月の祈願祭、4月の例祭で区民の安全と健康を祈願。11月感謝祭は、出雲から帰ってくる神様を迎え、感謝するとともにやはり区民の安全と健康を祈願する。また、10月には1年間の感謝を込めて区民総出でしめ縄を編むのが大浦の歳時記となっている。
大地主神社
対馬でここだけにある、歴史の壁
スーパーバリュータケスエ大浦店の駐車場横の壁面には、対馬の歴史や伝承を教えてくれる「歴史の壁」が、郷土史ファンに好評を博している。
2005年に社長就任した武末聖子社長の発案によるもので、対馬の歴史を対馬の人たちに知ってほしいという思いで、当初はチラシの片面に印刷していたものを簡潔にまとめ、駐車場の壁面を使って、観光客を含めより多くの人に知ってもらおうと企画したものだ。
全てを読破するのはかなりの時間を要するが、チラシの掲載内容を本にまとめた『知っとったぁ? こんな対馬の歴史!』が島内各書店で販売中だ。
「歴史の壁」の一部
【地名の由来】広い浦だから、大浦。この地名の由来は簡単明瞭でわかりやすいが、室町時代中期の古文書には「おうの村」「おうの浦」と書かれ、室町末期から「追浦」「おふ浦」「大浦」という、「の」が略された名称が使われている。「おう」が何を意味したのか。簡単明瞭ではないようだ。
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