対馬全カタログ「村落」
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2023年1月16日
厳原町
大手橋
【おおてばし】
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厳原・川端通りの東側一帯は
対馬一の歓楽街、
商人の街として発展
川端通り東岸
 厳原市街の真ん中を流れる厳原本川は、河口近くになると両岸に道路が整備され、店舗が並び、ちょっとした商店街を形成している。かつては川縁に柳の木が植えられ、絵はがきになるほど風情のある空間で、「川端通り」は厳原の誇りでもあった。
 大手橋地区は、この本川の東岸。江戸時代から海に面する一帯は「東の浜」と呼ばれ、かつて船奉行所もあった対馬の玄関口で、大手橋は商い、町人の街として賑わった
大正~昭和初期の川端通り。今に比べると、川幅も広く感じられ、木が多く、風情がある。川に降りる階段、遠くに電柱らしきものが確認できる。電柱の少なさから推測すると大正初期の写真だろうか。左側が大手橋地区  出典:弘報堂絵葉書
1963年(昭和38年)の川端通り。佐野屋橋から上流側を眺めた景色。右側が大手橋。車の通行スペース確保のためか、木がほとんどなく、電柱と今屋敷側に街灯「すずらん灯」だけが立っている  写真提供:宮本常一記念館
地名の由来となった大手橋
 大手橋は天正年間、宗義智の時代(つまり豊臣秀吉の時代)に、清水山城と前後し、宮前橋、江尻橋とともに架けられた。この3つの橋を「天正の三橋」というらしい。
 つまり、大手橋の少し海側までは埋立ても完了し、おそらく家も建ち、町の体をなしていたのではないだろうか。
 大手橋は名前の由来は、金石城の大手門につながるところからで、その道は「大手筋」と呼ばれた。当時としては大きな橋だったからか、あるいは「大手橋」を略してのことなのか、「大橋」とも呼ばれていたようだ。
 今は、大手門があった辺りから大手橋を通り丸山の麓に至る道が拡張され、厳原市街の新しい景色となっている
大手橋から河口方向を望む。大手橋地区は川の東側・左岸一帯。石垣をコンクリートで覆い、道路幅は拡張されたが、以前の趣は失われた。(2021年)
佐野屋橋のたもとに佐野屋あり
 江戸時代、大手橋は対岸の今屋敷同様、商人の街だった。佐野網(大阪・佐野の鰯地引網漁)の取り次ぎで有名な舟問屋(海産物問屋)佐野屋は、その名がついた佐野屋橋の大手橋側にあった。 
 佐野屋は船問屋5軒の中の1軒で、佐野網漁の船の多くが入船すると佐野屋に大阪から積んできた交易品(米・塩・紙・繰り綿・煙草・畳表など)を降ろし、漁場へ向った。また漁を終えて大阪に帰る際も、佐野屋に寄り、鰯を乾燥させた干鰯を佐野屋に買い取ってもらい、その荷を大阪まで運んだそうだ。
「町」と記しているところは町民家(商家、住宅など)  出典:『(文化8年)対州接鮮旅館図』
かつての佐野屋の前あたりから     写真提供:宮本常一記念館
民間の船は東ノ浜を使用
 下の地図(『(文化8年)対州接鮮旅館図』の一部)や古い写真を見ればわかるように、江戸時代はもちろん昭和初期まで、府中かつ厳原の土地は立亀嶽手前で終わっていた。そして、その一帯を「東ノ浜」と呼んでいた。
 公用船の利用を目的に作られた「西ノ浜」と対比させるがの如く、「東ノ浜」は民間利用を目的に作られ、それを管理、統制するために船奉行所、船改め(番所)を置いた。
 船奉行所は、年間1,000隻(他国船600隻)の出入りを管理した。旅船は月に50隻、漁船は100隻、朝鮮に渡る船は年間40隻、早船17隻、参勤船48隻、地廻船43隻など(1681年)。入船碇銭として1隻につき銀4匁を徴収した。
江戸時代後期(文化年間)の東ノ浜
絵葉書になった昭和初期の東ノ浜と立亀嶽:絵葉書には「有名な立亀岩と船客の乗降場にして中央の煙突は製氷所なり」と説明書きがあるが、不鮮明で中央の煙突がわからない   出典:弘報堂絵葉書
大人の街、夕方からの街
 大手橋地区のある一角は、一角といっても隅ではなく中心なのだが、ここにはかつての港町ならではの遊里が存在した。それがいつの時代からなのかを特定できる資料はないが、江戸時代からあっても不思議ではない。
 1916年(大正5年)に、立亀下の遊郭が立ち並ぶ一角にあるビリヤード場から出火。住宅73戸を焼失したという記録があるところから、すでに明治後期にはあったと考えてよさそうだ。
 昭和32年、売春防止法が施行されてからは、その一角は大人の街として、夕方からの街として、スナック、バー、キャバレーなどが電飾や店名で艶やかさを競った。
キャバレー「白馬車」の名前は小学生でも知っていた。老舗中の老舗だ
あの陶山訥庵の墓がある寺、修善寺
 対馬では誰一人として知らぬ者がいないと言われる偉人が、陶山訥庵(すやまとつあん)だ。ここでは詳しい経歴は略すが、元禄時代に対馬から猪を完全に消滅させた「猪鹿追詰」、俗に言う「猪退治」を行った偉人中の偉人だ。死刑を嫌ったことでも知られている。
  存(ながろう)、庄右衛門、老いては鈍翁(どんおう)とも呼ばれた。
 その訥庵の墓があるのが、大手橋の昌元坂を少し上ったところにある修善寺だ。門前の階段横にある案内板には陶山訥庵の功績が書かれてある。
修善寺正門
陶山訥庵の墓:左側が訥庵の墓で、「訥庵鈍翁墓」とだけ彫ってある
【地名の由来】 金石屋形の大手門に通じる道が本川と交わることろにかかる橋を大手橋といい、その橋の東側一帯を橋の名をとり、大手橋といった。
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