対馬全カタログ「村落」
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2023年1月17日
上対馬町
大増
【おおます】
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おそらく室町からの村だが、
長く侍がいなかったことに
大増ならではの気風を感じる
対馬では珍しい誕生期不明の村
 1471年に刊行された朝鮮の書『海東諸国紀』には、室町中期の対馬の村々の名称と、その大まかな戸数が書かれている。朝鮮から本土への航路周辺にある、島の北側や東側の村については欠落はほとんどないのだが、「大増」は載っていない。
 また、古代や中世の遺跡も発見されていないところから、比較的新しい村と考えられている。
 最初に「大ます」という地名が登場する史料が、1573年(元亀4年)の文書だそうだ。
 さらにその72年後の1645年(正保2年)には、物成(年貢)として麦40石が見積もられる村まで発展していたことを考慮すると、『海東諸国紀』には載っていなかったものの、既にそれが書かれた時代には、小さいながらも村の体(てい)を成していたはずだ。
 おそらく浜玖須同様、玖須の一部(枝村)という認識だったのだろうが、玖須も『海東諸国紀』には載っておらず、大増が載るはずもないのだが。
玖須村の次男・三男たちが開発した村だろうか
 舟志湾の湾口に向かって伸びた半島は大増地区の一部だ。半島名は不明。少なくとも『上対馬町誌』には載っていない。おそらく浦の名称さえわかっていれば、半島名がなくても不自由がなかったからだろう。
 その半島の付け根の南側はもちろん北側の集落も大増だ。大増の村域は実に広い。これだけの広さを得るには、やはりそれなりの力を有していたことが推測できるが、室町時代に玖須、あるいは浜玖須のあるグループが開発した村なのかも知れない。室町初期に一大潮流となった農家の次男・三男たちによる惣村づくりが対馬まで波及し、玖須の次男・三男たちが独立すべく村をつくったのかも知れない。
 あるいは、室町時代、対馬の主産業だった製塩のための村としてスタートしたのかも知れない。周囲に集落がなく、竃焚きに必要な木(塩木)に困ることはなかっただろうから。1409年(応永16年)に書かれた琴の財部氏宛ての書状に「おほはすのかま(塩竃)」」という文言があり、「おほはす」=大増ではないかという歴史家の指摘があるが、それを確認する術がない。
 江戸時代後期の史記『津島紀事』には「古くは玖須の属邑ならん」と書かれてある。
豊崎郷では唯一の給人・足軽のいない村
給人・足軽のいない村だった。大増に初めて給人が誕生したのは1774年(安永3年)。最終的に馬廻り格まで出世したが、知行高は少なく5寸。1寸は約1石だから、約5石。農民よりは多いが楽な暮らしではなかったはずだ。
 その後、『豊崎郷給人奉公帳』によると、1852年(嘉永5年)に永年の足軽としての奉公が認められ給人に召し上げられた家があるが、こちらは1寸6分だった。給人にはなったものの“土地が少ない村”だからと、とりあえず現在耕している公領を知行とする、ということだった。
大増地区の集落ほぼ全域:右上の集落も大増。さらにその奥の方が浜玖須になる
生産高も、耕作地も、人口もほとんど変化のない江戸期
 江戸時代の資料を元に大増の隆盛をたどると、それほど大きな変化ないことがわかる。
 米麦の生産量は物成(年貢)の4倍と考えると1700年の生産量は108石となり、その1/3が村人の食糧になると考えられており、計算すると36石。一人が1年間に食べる米麦は0.34石となり、対馬の平均0.48石よりも少ないことがわかる。
 その約160年後の米麦の生産量は150石。生産量は1.39倍に。11歳以上の人口は108人だから、ほとんど人口の変化はなく、一人当たりの米麦の量を求めると0.46石(11歳以上の人口で計算)。増えはしたものの、その頃の対馬の平均は0.66石(11歳以上の人口で計算)になっていた。つまり対馬平均の約70%。前述の“土地が少ない村”を裏付ける数値だが、当時は孝行芋があったので、いくらか暮らしは楽になっていたはずだ。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約27石、戸数25、人口106、神社1、寺1、
給人0、公役人17、肝煎1、猟師11、牛8、馬12、船4 

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦150石、家22、人口134、男52、女56、10歳以下26、牛22、馬18、孝行芋1,605俵
平地が多い大増の中心集落
ヤブサ神から宗像神社へ
 大増が室町時代からの村であることを推察させる情報として、かつて氏神をヤブサ神としていたことがあげられる。
 ヤブサ神は対馬で古くから祀られてきた神ではなく、本土からやってきた住吉神、恵比須神、金比羅神などの全国区の神様とも違い、中世に西九州で流行った信仰で実態はよくわかっていないという。農民たちだけで新しくつくった村に祀る神様としては格好の、比較的敷居の低い神様だったのかも知れない。
 対馬では上対馬町域に多く、素朴な祖霊信仰と考えられており、古い墓が聖地化したものとも。貞享(1684年~1688年)の『神社誌』に、大増の神社として「氏神天台矢房」と記載されているが、その社の場所が現在は宗像神社になっている。
 ヤブサ神信仰が衰えた頃(江戸時代中頃らしい)、宗像神を氏神と改めたのではないかと、郷土史家は考えている。その宗像神は、かつて三根郷佐賀の宗形大明神から勧請し、長く畑の中の小さな社で祀られていたそうだ。
 佐賀の宗形大明神は鎌倉時代には存在していたことが当時の文書にも載っており、北九州と対馬を行き来した船乗り達が祀ったものと考えられている。
宗像神社
かつてあった大増・舟志を結ぶ渡海船
 大増から舟志に至る海岸線は断崖絶壁が多く、道を通すのが容易でないため、かつては船で移動するのが当たり前で、渡海船が航行していた。
 『上対馬町誌』に載っている1958年(昭和33年)の運行案内によると、営業時間は毎日、日の出から日の入りまで、となっているが、舟志始発が7時20分、大増終発が午後6時と、バスの発着時間に合わせているそうだ。
 料金は、一人の時45円、二人の時35円、三人の時25円。中学生以下は20円。当時の物価で考えると、それ程安くもないのではないだろうか。
 この渡海船がいつ始まり、いつ終わったのかは『町誌』に載っていないが、比田勝・舟志間のバス運行が1968年(昭和43年)12月にスタートしたので、それと同時に廃止ということだろう。
渡海船航路(推定) 出典:国土地理院地形図(村名拡大/村名追加/航路記入)
渡海船が往復していた波穏やかな舟志湾
日本一の高さを誇ったオメガ塔
 全国ではあまり知られていなかったが、1975年以降、東京スカイツリーが完成するまで、日本で一番高い建造物は東京ではなく、対馬にあった。
 地上454.83m。自立塔ではなく、塔本体を多数のワイヤーで支える形式のため、設置面積は舟志湾をまたいで1キロメートル四方。塔の中は空洞で、登るための垂直タラップが設置され、途中に休憩所が設けられていたそうだ。
 設置目的は、船舶や航空機が安全に航行するためのオメガ航法を可能にするため。世界8カ所のオメガ局が発する電波で世界全体をカバーし、電波の位相差を計算することで、どこにいても自機、自船の位置がわかり、それによって自動操縦も可能になった。その8カ所の中の1つ、アジアで唯1つの塔が対馬にあった。
 対馬のオメガ塔は1970年10月に建設工事が開始され、1975年に完成。その年の5月から運用が開始された。しかし、GPS(全地球測位システム)が本格的に利用されるようになり、1997年9月末に閉局。23年間の「日本一」だった。解体は1998年に開始され、2000年3月末に完了。跡地は「オメガ塔跡地公園」として整備された。
オメガ塔:自立した塔ではなく、湾を越えて四方からワイヤーで固定(案内板を複写・修整)
オメガ塔跡地公園:基部がモニュメントとして残されている
1971年に廃村となった加瀬ヶ浦
 オメガ塔建設にともない、1つの村が廃村に追い込まれた。
 半島先端部に近い加瀬ヶ浦は明治30年代に人が住み着きはじめた、寄留の村だ。広島をはじめ島根、愛媛、和歌山、福岡などから、イカ漁を目的に移住してきたそうだ。最盛期は40軒もあったという。
 1965年(昭和40年)には既に18軒になっていた村に、廃村の話が持ち込まれたのは1968年頃ではないだろうか。1969年には正式に場所も決まり、工事がスタートしたのが1970年(昭和45年)10月。村は翌年廃村となった。
 『上対馬町誌』によると、転出先は、大増6世帯、浜玖須2世帯、古里1世帯、泉1世帯、小倉1世帯、岡山1世帯だそうだ。
【地名の由来】 入江がなくすぐに青海原が望めるところからか。かつては「青見」と書き、永禄以後「青海」となる。
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