対馬全カタログ「村落」
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2020年7月12日更新
美津島町
大船越
【おおふなこし】
江戸初期に
完成した水路が
この村を大きく変えた
島を二分した水路
 1471年に朝鮮で出された『海東諸国紀』には戸数100戸と記載されている大船越。弥生時代には既にあった村と言われているが、中世までは小船越に比べ歴史に登場する機会は少なかった。
 それが変わったのは、1672年(寛文12年)に、瀬戸を掘り切り、水路を完成させてからのこと。この工事によって対馬は初めて二つに分かれた。
 西の海だけに開口し奥が閉ざされていた浅茅湾が、東の海にも開いた。船中心の島内交通にとっても便利ではあるが、朝鮮へ往来する船もここを通った方が早い。藩は密貿易などを取り締まるため「口留番所小船改」をいう番所を置き、通交する船を監視させた。
人夫の村から漁民の村へ
 瀬戸の開通によって、島民の生活だけでなく大船越の人々の暮らしも大きく変わった。
 まず生業が変わった。それまでは地峡を越えさせるために船を陸に揚げて運ぶ人夫として収入を得ていたが、まずそれがなくなった。これは「寄留」と呼ばれた二男、三男たちにとっては大打撃だったはずだ。しかし、開削以前は、東の海で漁をする船にとっては風待ちをする入江もなかったが、開通によって東西に出漁できるようになると外来漁民が押し寄せ、漁業の村という新たな一面をもつことになった。出稼ぎ漁にさまざまな便宜を図ったり、魚の処理作業を行ったりと、それなりの収入にはなったはずだ。
 開削から28年後の1700年(元禄13年)の郷村帳には、戸数36戸、人口190人とある。まだそれほど大きな村ではなかったようだ。
大船越事件、勃発
 1861年(文久元年)2月に浅茅湾に侵入したロシア船ボサドニックは船の修理を理由に逗留。藩の退去命令を無視して、昼ヶ浦の芋崎に錨を下ろし小屋を建て、約半年間居座った。
 その間の4月13日、大船越の瀬戸をロシア船ボートが番士の制止を無視して強行突破しようとした。それを見た松村安五郎は阻止しようと薪を投げたが、逆に相手の銃で撃たれた。また番士の吉野数之助はロシア側に捕らえられ舌を噛んで息絶えた。この二人を讃える碑が瀬戸の南側にある。
安五郎を讃える「忠勇」の碑
数之助を讃える「義烈」の碑
【地名の由来】 小船越に比べ、越える丘が小さいので、大きな船を引いて越すことができたところから、と言われている。
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