瀬戸の開通によって、島民の生活だけでなく大船越の人々の暮らしも大きく変わった。
まず生業が変わった。それまでは地峡を越えさせるために船を陸に揚げて運ぶ人夫として収入を得ていたが、まずそれがなくなった。これは「寄留」と呼ばれた二男、三男たちにとっては大打撃だったはずだ。しかし、開削以前は、東の海で漁をする船にとっては風待ちをする入江もなかったが、開通によって東西に出漁できるようになると外来漁民が押し寄せ、漁業の村という新たな一面をもつことになった。出稼ぎ漁にさまざまな便宜を図ったり、魚の処理作業を行ったりと、それなりの収入にはなったはずだ。
開削から28年後の1700年(元禄13年)の郷村帳には、戸数36戸、人口190人とある。まだそれほど大きな村ではなかった。
また、陸路、瀬戸を渡る人々のために渡し船が設けられた。瀬戸に堆積していく土砂を取り除くために瀬戸浚えも行われた。明治以後はそれがこの村の春の恒例行事となり、1957年(昭和32年)まで続いたそうだ。