対馬全カタログ「村落」
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2023年1月28日更新
美津島町
大船越
【おおふなこし】
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江戸初期に
完成した水路が
この村を大きく変えた
島を二分した水路
 1471年に朝鮮で出された『海東諸国紀』に戸数100戸と記載されているように、その頃から大きな集落を成していた大船越。浅茅湾側に遺跡があることから、弥生時代には既にあった村と言われているが、中世までは小船越に比べ歴史に登場する機会は少なかった。
 それが変わったのは、1672年(寛文12年)に、瀬戸を掘り切り、水路を完成させてからのこと。人夫の延べ人数35,000人、工事期間ほぼ半年。この工事によって島は初めて二つに分かれた。その後拡張工事が行われ、最終的に全長242m、幅49mの水路が完成。西の海だけに開口し奥が閉ざされていた浅茅湾が、東の海にも開くことになった。
 船中心の島内交通にとっても便利であるが、朝鮮に往来する船もここを通る。藩は密貿易などを取り締まるため「口留番所小船改」をいう番所を置き、通交する船を監視させた。
現在の大船越瀬戸(2021年)
堀切由来の碑
人夫の村から漁民の村へ
 瀬戸の開通によって、島民の生活だけでなく大船越の人々の暮らしも大きく変わった。
 まず生業が変わった。それまでは地峡を越えさせるために船を陸に揚げて運ぶ人夫として収入を得ていたが、まずそれがなくなった。これは「寄留」と呼ばれた二男、三男たちにとっては大打撃だったはずだ。しかし、開削以前は、東の海で漁をする船にとっては風待ちをする入江もなかったが、開通によって東西に出漁できるようになると外来漁民が押し寄せ、漁業の村という新たな一面をもつことになった。出稼ぎ漁にさまざまな便宜を図ったり、魚の処理作業を行ったりと、それなりの収入にはなったはずだ。
 開削から28年後の1700年(元禄13年)の郷村帳には、戸数36戸、人口190人とある。まだそれほど大きな村ではなかった。
 また、陸路、瀬戸を渡る人々のために渡し船が設けられた。瀬戸に堆積していく土砂を取り除くために瀬戸浚えも行われた。明治以後はそれがこの村の春の恒例行事となり、1957年(昭和32年)まで続いたそうだ。
大船越周辺地形図   出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡追加等)
大船越事件、勃発
 1861年(文久元年)2月に浅茅湾に侵入したロシア船ボサドニックは船の修理を理由に逗留。藩の退去命令を無視して、昼ヶ浦の芋崎に錨を下ろし小屋を建て、約半年間居座った。
 その間の4月13日、大船越の瀬戸をロシア船ボートが番士の制止を無視して強行突破しようとした。それを見た松村安五郎は阻止しようと薪を投げたが、逆に相手の銃で撃たれた。また番士の吉野数之助はロシア側に捕らえられ舌を噛んで息絶えた。この二人を讃える碑が瀬戸の南側にある。
安五郎を讃える「忠勇」の碑
数之助を讃える「義烈」の碑
明治後の大船越
 1978年発行の『美津島町誌』によると、大船越はイカ釣り漁の基地として、島原からの移住漁民が中心となって発展したと書かれている。対馬への移住が可能になったのは明治以後だが、それまでも島原はもとより天草から出稼ぎ漁があったに違いない。
 大船越瀬戸はその後も段階的に拡張工事が行われ、長さ262m、幅21.8~49m、水深1.5mとなった。
 また、瀬戸の両岸を結ぶために木製の橋が何度も架けかえられたそうだ。バスも通れる橋として1957年(昭和32年)に建設された旧大船越橋を経て、1970年(昭和45年)、現在の大船越橋が完成し現在に至っている。
1970年に架けられた大船越橋
【地名の由来】 小船越に比べ、越える丘が小さいので、大きな船を引いて越すことができたところから、と言われている。
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