対馬全カタログ「村落」
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2024年2月11日更新
上県町
仁田ノ内
【にたのうち】
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豊饒な佐護平野の一村として
仁田・伊奈につながり
弥生後期から栄える
佐護の中では厳原/府中に一番近い村
 「仁田ノ内」という地名は、佐護郷の中で最も仁田郷に近いということで付けられた地名だと言われている。仁田への入口という意味で「仁田口」と呼ばれた時代もあったそうだ。
 昔、陸路で佐護から厳原(江戸時代は「府中」)に行くには、仁田ノ内から山越えして伊奈に出て、そこから渡海船か櫓船で鹿見に渡り、山越えして三根に。さらに仁位まで歩き、仁位の宿で1泊。仁位から樽ヶ浜まで渡海船に乗り、樽ヶ浜から厳原までまた歩く。丸二日かかった。
 無理して1日で厳原に行こうとすると、健脚かつ未明の4時出発が必須条件だった。
 仁田ノ内は最も厳原に近い村だったからだろうか、昭和前期には商店(食料品・タバコ・塩・呉服)が三軒もあったという。その他には、大工が4、5軒、鍛冶屋が1軒、桶屋が1軒あったそうだ。
佐護周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名拡大/施設名追加等)
佐護では特に遺跡の多い村
 村外れの中山川沿いにある段丘に石積みの壇があり、弥生後期の祭祀遺跡と報告された。いわゆる磐座(いわくら)だが、かつてそこで八幡神を祀った時代があったので、地名も「八幡壇」となり、遺跡名は「八幡ダン遺跡」。広形銅矛の矛先と柄の部分が出土したそうだ。
 この遺跡を筆頭に仁田ノ内周辺では7つの遺跡が見つかっている。これだけでもかつてこの辺りが佐護の中心であったことが推測できる。   

 7遺跡を古い順に並べるとこうなる。なお弥生後期3遺跡、中世2遺跡の年代順は不明だ。
佐護白嶽遺跡(弥生中期~古墳時代/墳墓)
八幡ダン遺跡(弥生後期/遺物包含・祭祀遺跡)
八幡ダン石棺墓(弥生後期/墳墓)
ヘボノダン遺跡(弥生後期/墳墓)
鷗浮(カモメウキ)遺跡(古墳時代/墳墓)
大石原遺跡(中世/遺物包含地)
屋敷畑遺跡(中世/遺物包含地)
仁田ノ内周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡名)、長崎県遺跡地図
対馬初発見。中世の建物群遺跡、大石原遺跡
 1993年(平成5年)、圃場整備事業に先立つ調査によって積石塚らしきものが発見され、「大石原」を分布調査を行うと多数の陶器片が見つかった。上の仁田ノ内周辺地図でわかるように、遺跡推定エリアはかなり広い。
 その2年後、大石原の国道382号線を挟んで東側「屋敷畑」で、農道開設前の発掘調査(約5m×約60m)を行うと、大石原同様の多数の陶器片とともに、ほぼ等間隔に並んだ多数の穴が発見された。穴はかつて掘立柱を立てた跡で、10棟分が確認できたそうだ。
 調査エリア内の北ゾーンに小屋のような小さな建物、20mほど距離をおいた南ゾーンに雨水を流す溝を伴う大型の建物が配置され、それぞれ建て替えながら継続利用されていたと考えられている。大きな建物は大型の倉庫あるいは住居と推測されている。
 時代は12世紀から13世紀前半、平安後期から鎌倉時代にかけての遺跡らしく、陶器片も高麗青磁が最も多く、中国製も含め輸入陶磁器が83.9%、国産陶磁器はが16.1%だ。この割合は当時の一般の領主関連遺跡と近似で、「屋敷畑」という地名からして、この地方を束ねる首領の屋敷があったのではないかという説が有力だ。
大石原遺跡と想定されるエリア:国道と川をはさんで、左(東)が屋敷畑遺跡、右(西)が大石原遺跡。中世の頃は間に川もなく、一体の遺跡と考えられており、二つ合わせて大石原遺跡として扱われることもある(長崎県遺跡地図の大石原遺跡エリアを写真上に再現)
藩による河川改修、辰ノ口の堀切
 佐護川はしばしば氾濫を起こし、特に檀山の南側から西側にかけて、中山川と仁田ノ内川が合流し蛇行する地点の被害が大きかった。
 対馬藩は、1722年(享保8年)に斎藤四郎次を普請奉行とし、川の改修を命令。四郎次は檀山につながる尾根を掘削して堀切を造り、仁田ノ内川の流路を変えることによって洪水を抑えることに成功した。後世、その四郎次の功績を称えた碑が川辺に建てられた。
佐護銀山と、しげくま亜鉛鉱山
 佐護銀山は1656年(明暦2年)に発見され、藩直営の銀山として期待されたと『厳原町誌』にあるが、有名な安田善兵衛による銀山が開かれたのは1667年(寛文7年)。11年の隔たりがあり、この二つが同一のものであるかどうかは、書籍で読む限りは不明だ。
 安田善兵衛による銀山は、仁田ノ内の神ノサエ辺り(仁田ノ内川の源流部・御嶽の北側の谷)に開かれたが、2年後に藩命により謎の閉山を強いられた。鉱害によって採掘禁止になったという説もあるが、当時“鉱害”という意識がどれほど高かったか疑問だ。
 時代は下り、仁田ノ内川の最奥部に再度スポットが当たったのは、昭和になってからだった。1961年(昭和36年)、昔の銀山跡で採掘が始まったが、その後、対州鉱山を経営する東邦亜鉛と合併して亜鉛を採掘した(当初から亜鉛だったのかも知れない)。
 しかし、1960年代後半、佐須の方でカドミウム汚染が疑われるようになってしばらくした1971年(昭和46年)頃、突然閉山となった。字名をとって「しげくま亜鉛鉱山」と呼ばれていた。
江戸時代から既に穀倉地帯
 佐護の最大の特徴は対馬の穀倉地帯と呼ばれる程、水田が多いことだ。対馬で2番目に広い流域面積をもつ佐護川が、6ヵ村を潤すかの如く流れており、その広い河川敷を干拓し耕すことによって、佐護の村々は対馬としてはこれ以上ない農地を手に入れることができた。
 1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』と、1861年(文久元年)の『八郷村々惣出来高等調帳』で、人口と食糧のデータを比較すると、100年で収穫量は1.26倍、人口は1.08倍(11歳以上の人口で比較)に。
 収穫量の1/3が農民に残ると考えると※、一人当たりの1.16石、1日にすると3.18合から、160年後は一人当たり1.35石、1日3.7合に増え、食べることに関しては現代と変わらないレベルの豊かな食糧状況だったようだ。
 給人は元禄の頃は3人だが、分限帳によると幕末期には10人に増えている。5人は文化文政年間(1804~30年)に召し抱えられており、開き(干拓)を成し遂げたか、献金したことへの褒賞ではないかと推察できる。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約131石、戸数38、人口150、神社ヌケ、寺ヌケ、給人3、公役人24、肝煎1、猟師16、牛39、馬34、船2

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦660石、家35、人口177、男84、女79、10歳以下14、牛34、馬44、孝行芋1,700俵

※対馬藩の「物成(年貢)」は収穫量の1/4だが、それ以外に金銭で納める税金「公役銀」を工面するために麦などを売る必要があり、その他の支出も考慮すると、食糧として農民に残るのは収穫量の1/3くらいと考えられている。
青々とした水田が広がる仁田ノ内地区
収穫量は多いのに子供が少ないのは何故?
 1861年(文久元年)のデータで一人当たりの食糧(米麦類)が多い村は上位から、友谷1.53石(全人口)/1.3石(11歳以上)、仁田ノ内1.24石/1.35石、三根1.17石/1.5石、吉田1.18石/1.38石、恵古1.13石/1.20石、井口1.06石/1.35石となり、佐護の中でも仁田ノ内はかなり余裕のある食糧状況だったことがわかる。
 ただ食糧事情は良いのに、子供(10歳以下)の人口割合が7.9%と低いのは何故なんだろうか。比較的子供の数が少ない佐護5ヵ村の中でもダントツに低い。対馬の郷村の平均は14.78%だ。
 ここまで少ないと、やはり意識的に子供は必要最小限の嫡男1人だけにして、多く作らないでおこうとしたからではないかと考えてしまう。労働力として子供を求めなかったということだろう。当時、次男、三男は、家を持てず、長男の下人同様の人生を歩むのが一般的だった。
佐護上里3村共同の正月行事「大般若様」
 佐護観音堂で行われる年始めの伝統行事で、今も続いている行事に「大般若(だいはんにゃ)様」がある。
 1月11日、深山にある瑞雲寺の大般若経の経本600巻を、恵古、仁田ノ内、深山の3地区の代表計6人が100巻ずつ背負い、約1.5km離れた観音堂まで歩いて運ぶ。「背負う」を対馬では「からう」という。そこからこの行事は「大般若様からい」とも呼ばれる。
 観音堂では僧侶が読経し経本を扇のように繰りながら、参拝した住民らの頭や肩に当て、家内安全や子孫長久を祈願し一年のお払いをする。
 600年続いているといわれる由緒ある行事で、現在の経本は3代目。1代目は深山の地蔵院の経塚、2代目は瑞雲寺の経塚に納められているそうだ。
 かつては正月に、吉書焼、コッパラ、山の神祭なども行われ、1月7日には豆撒きも行われたという。
その他
◎6月の初午の日には、3頭の馬による「馬跳ばせ」もあった。小麦・餅米を炊いてつき、砂糖を混ぜて団子にした「はたきもん」を作り、馬にも食べさせたという。
【地名の由来】 本文参照。
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