2023年1月4日更新
上県町
西津屋
【にしつや】
ツツジと西津屋蕎麦は
姿を消したが
野菜だけは今も健在
いつの頃からの村かは定かではないが、鎌倉時代に宗氏と阿比留氏が争った時、佐須奈を拠点としていた阿比留禅祐坊の子女がこの村にかくまわれたという話がある。おそらく平安時代以前に成立していた村ではないだろうか。
1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には、戸数70余戸とあり、江戸時代の戸数の3倍近い。少し差し引いて50戸としても、江戸時代の2倍。地名の由来にもあるように、おそらく朝鮮との交易に関わる人、それをサポートする人々が多く暮らしていたということではないだろうか。
地形を見れば、かつて“風待ちの港”として栄えたことがうなづける
ほとんど変化のない江戸時代
下は、藩によって朝鮮との交易が禁じられた江戸時代の記録だが、江戸時代を通して、戸数は25戸前後、人口も大きな変化はなかった。麦の生産高は、あくまでも単純計算でだが、160年で約1.2倍と微増。その代わりに孝行芋(さつまいも)は、0→1,640俵と大きく増えた。戸数や人口はあまり増えなかったが、村の暮らしには余裕が生まれたはずだ。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約48石、戸数27、人口117(10歳以下含まず)、神社1、寺1、給人1、公役人15、肝煎1、猟師13、牛15、馬0、船9
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦約227石、家24、人口151、男61、女64、
10歳以下26、牛26、馬15、孝行芋1,640俵
かつて対馬で「霧島」といえば、
かつて西津屋といえば、対馬では西光寺の霧島(霧島ツツジ)と西津屋蕎麦で有名な島内観光地だった。
西光寺は住職はいないが廃寺ではない。仏事があれば同宗派の寺から担当の僧が駆けつける。そんな寺を無住寺というらしい。そのあまり広くない境内でツツジの巨木は美しい花を咲かせ、島内からの花見客で賑わった。
しかし、1975年(昭和50年)ごろから、寿命を全うしたかの如く枯れてしまったそうだ。1973年に寺守りをしていたおばあさんが殺されことを嘆いたのかも知れない。(犯人は他の村の労務者で4日後に捕まった。)
その後、その子孫と思われる幼木がなんとか開花を維持してきたが、2022年春には「西光寺の霧島ツツジ」は、かつてのような巨木ではないものの、民放テレビで紹介されるほど見事な赤い花を咲かせるようになった。
西光寺の霧島ツツジ(2022年)
今や幻の西津屋蕎麦
蕎麦の方はどうだろう。つなぎを全く使わないから蕎麦純度100%。だから麺に打って茹でると短く切れるが、蕎麦の旨みがダシに溶け込んで、絶品だという。
栽培の歴史は比較的浅く、明治5年の『郡村誌』によると、佐須奈や佐護では蕎麦が収穫されていたが、西津屋ではまだ栽培されていなかった。後発ながらそれが名物になったのは、余程うまかったからに違いない。
2003年の取材時は、西津屋で蕎麦を栽培している家は3、4軒だということだったが、2020年には2軒に。自家で食べる分だけを栽培しているそうだ。
西津屋蕎麦といっても基本は対州蕎麦のはずだが、どこが他の村の蕎麦と違い、多くの島民を引きつけたのだろうか。食べ比べたくても、もうそれはほぼ不可能と書くほかない。
野菜と長寿
かつて西津屋は対馬一の長寿集落で、日本全国でも第3位だったという。1964年(昭和39年)の調査で、70歳以上が人口に占める割合、という極めてシンプルな統計だが、この当時はまだ過疎もさほど問題ではなく、この数字(西津屋は11%)だけで、長寿村かどうかを判断したようだ。
その長寿の理由として、西津屋は、畑が多く、甘藷、野菜、蕎麦の産地であり、健康によいニンジンやカボチャもつくり、海草を多く食べていることが挙げられている。つまり栄養のバランスが理想的ということらしい。2020年現在、長寿集落を示すデータには出会ってないが、どうだろう。
現在、西津屋の新鮮な野菜は佐須奈の「やまねこ楽市場」で、毎週火・木・土の朝市で買える。これは2003年と変わっていないが、陳列される野菜の種類と量は減ったという。
佐須奈 朝市の西津屋野菜(2003年)
2020年の朝市
「あなた」も「こなた」に
かつて民家は2ヵ所に分かれ、上里の家を「那辺(あなた)」下里の方を「這辺(こなた)」と呼び、「こなた」は海際にあった。
江戸時代は農業がメインで、漁業はサブだったが、時代とともに漁業の比重が増え、それにともない上里の家々も下里の方に。現在ではほとんどの家が「こなた」に集まっている。決して農業がおろそかにされている訳ではないようだが、高齢者が農業の中心であることは他の村と変らない。
かつて「こなた」と呼ばれた河口付近
海岸沿いに立石と漣痕
西津屋の名所としては、立石と漣痕が挙げられる。立石は航行する船からは西津屋の目印となる石で、風待ちの港としての西津屋のシンボルだったに違いない。少し距離はあるが、西津屋漁港の堤防からでも眺めることはできる。
漣痕は、南西へ海岸沿いの道を400~500m行ったの辺りにあるが、かつては車でも通れた道が2022年現在、通行止めになっており、見物するのは容易ではない。崖崩れの可能性があるからだろう。道には角の鋭い石が多数転がっている。
漣痕は高さ約8m、長さ約60mということだ。岩は堤防から確認できるが、残念ながら漣痕を観賞することはできない。
西津屋漁港から眺めた立石
網代の漣痕ほど大きくはないが、岩の形と表面のコントラストが美しい
【地名の由来】 かつて風待ち、潮待ちのために船商人が集まる港で、その宿を邸家(つや)とも言った。当時の主要港の西にあったので、西のつや。
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