2023年1月4日更新
上対馬町
西泊
【にしどまり】
交易の中継地として
西泊という地名が示すように、この村は古くから朝鮮と九州あるいは本州を往来する船の寄港地(泊)であり、その恩恵で村の歴史をつくってきたようだ。
現在は隣り村の古里の遺跡として扱われている弥生時代の石棺群「塔ノ首遺跡」だが、塔ノ首から東は本来は西泊の土地。この遺跡も西泊に拠を置いた豪族の墳墓と見られており、かつては西泊がこの地域の中心であった根拠ともなっている。しかし、西泊の豪族が墓をつくるなら、もっと最適な岬があるように思うのだが。
この半島が風波を防ぎ、西泊に繁栄をもたらした
中世の繁栄
西泊がはじめて文献に登場するのは1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』であり、そこには戸数100余戸と紹介されている。これをこの書物ならではの大雑把な数字と捉えるか、ほぼ実数通りと受け取るか。ほぼ実数という説には、次のような解釈もある。
15世紀初めの記録で西泊には製塩のための塩釜があったことがわかっている。塩釜は多くの燃料や、伐子(きりこ=木を伐って薪をつくる人夫)や人足などの人手が必要であり、その塩釜の施設や切子納屋が人家に見え、100余戸となったのではないかと『上対馬町誌』にある。
その5年後(1476年)に西泊に滞在した朝鮮使節の報告書によると、西泊の人居は50余戸となっている。それでもやはりこの時代としては多く、官船が寄港するほど、重要な港であったことがわかる。
通信使の宿所となった西福寺から望む西泊
したたかな村
古より交易を業としたためか、歴史に登場する西泊はなかなかしたたかな村という印象がある。
藩のお墨付きとなる公事免許(今風に言うとライセンス)もその一つで、この村には、船の売り買い、人の売り買い、塩の売買をはじめ多くの公事免許状が発行された。
また、対馬で初めて漁場を貸して浜料を得た村であり、1805年(文化2年)に秋鰯小魚取網を、翌1806年(文化3年)には大敷網を村中で請浦し、その漁業権を貸して旅漁師に経営をさせている。また、同じ湾内の3村が浜料の分配を求めたが、それを退けた。
明治以降も漁業の基地として発展し、明治40年代からは近代捕鯨の基地として、戦後はイカ釣漁で栄えたが、1908年(明治41年)に比田勝に役場ができて以来、徐々に繁栄の中心が比田勝に移っていった。
海ばかりでなく、陸でも頑張った
1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』によると、西泊は、物成約33石(生産高はこの4倍、約132石)、戸数29、人口106、神社2、寺1、給人1、公役人11、肝煎2、猟師2、牛7、馬0、船8、となっている。
その約160年後、1861年(文久元年)の『八郷村々惣出来高等調帳』では、籾麦212石、家24、人口141、男56、女65、10歳以下20、牛23、馬19、孝行芋1,675俵、というデータだ。
比較できる項目で西泊の変化を追ってみると、戸数は5戸減、人口は35人増だが元禄の数字は10歳以下は含まれていないので、それほど変化はないと言える。
大きな変化は、生産高だ。212-132=80石も増えている。収穫量と耕作面積が比例すると考えると、1.65倍も耕作地が増えたということになる。その一部は後述する三宇田村の吸収もあっただろうが、開き(干拓)や発し(開墾)も積極的に行ったはずだ。
当然、労働の総量もかなり増えた。その証しとして、牛が7→23と16頭も増え、ゼロだった馬が19頭になった。家畜が7→42と、6倍も増えた村は、かなり珍しい。
真冬の磯を歩いて観音参り
殿崎先端部の磯にある自然の洞に、花崗岩の観音像が祀られている。1781年(天明元年)、五島の海女が海の底に光るものを見つけ、それを揚げてみると仏像だったので、最寄りの磯に石を積んで台座とし安置したと伝えられている。
旧暦の1月14日に西泊の村人が磯づたいにその観音像に詣でる「観音参り」が、今も村の行事として続けられている。実はこの観音様、子供を授ける子宝観音として地域の人たちに信仰されており、真冬の磯を約1kmも歩くという荒行のような参拝でも絶えなかったのには、その御利益パワーもあるのではないだろうか。
荒磯沿いに観音像だけでなく、計5体の石像がお祀りされている
殿崎に上陸したロシア兵を介抱
もう一つ、西泊を語るうえで忘れてはいけないのが、日露戦争の日本海海戦(海外では対馬沖海戦というのが一般的)で傷ついたロシアの敗残兵を手厚く介抱したことだ。
1905年(明治38年)5月27日、対馬の北西沖で繰り広げられた対馬沖海戦で、東郷平八郎率いる連合艦隊は、当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊に勝利した。その戦いで撃沈されたウラジミール・モノマフ号の乗員で殿崎に上陸した143人を、西泊の人たちは村に迎え入れ、麦や芋を出しあって食べさせ、着替えさせて汚れた服を洗濯した。一晩西泊で過ごしたロシア兵は献身的な看護で元気を取り戻し、翌日収容所に連行されたそうだ。
その7年後、西泊の人たちはこのことを後生に残そうと寄付金を募り石碑を完成させた。このことを知った東郷平八郎は、碑文として「恩海義嶠」( めぐみの海 義はたかし)を送った。
記念碑の奥、殿崎よりに日本海海戦におけるロシア兵戦死者4830名と日本兵戦死者117名全員の名前が刻まれた「日露慰霊の碑」が建てられている。
日露慰霊の碑
廃村となった三宇田村のこと
1996年(平成8年)に「日本の渚百選」に選ばれ、白い砂と青い海のコントラストが美しい三宇田海岸。今は対馬屈指の海水浴場&キャンプ場として韓国からも観光客を訪れようになったが、1703年(元禄16年)の郷村帳にはそこに独立した村があったことが記されている。その後、三宇田村は疲弊し、脱村者も出るなど、村の体を成さず、享保年間(1716~1744年)の初め頃に西泊に吸収されてしまった。その時に網代村に移った人たちもいたそうだ。
三宇田海岸には、「花宮御前」という祠があるそうだ。ウツロ舟(漂流船)に乗って流れてきた姫君が、財宝を盗まれ殺されたという伝説があり、その後の三宇田村の不幸を暗示しているかに思えるが、史実ではないようだ。
ホテルが建つ前の三宇田浜(2003年)
観光資源としての三宇田
1980年(昭和55年)に上対馬町によって西泊に建てられた国民宿舎「上対馬荘」は 当初は黒字経営だったが、観光スタイルの変化による国民宿舎離れが進むと、赤字に転落。2010年(平成22年)には民間ホテル「花海荘(かみそう)」として生まれ変わった。
2019年には人気の三宇田に、「渚の湯」の隣にホテルが建てられた。開業直後、政治問題による韓国人観光客の激減、コロナ禍による来島者の激減にみまわれ、臨時休業(2020年8月現在)を余儀なくされたが、コロナ禍が収まれば、美しい三宇田浜をリゾート資源として活用した、ホテル滞在型の、対馬としては新しい観光スタイルを提供していくはずだ。
半島の先端に建つ「花海荘(かみそう)」
リゾート感が高まった三宇田浜(2020年)
【地名の由来】 本土からの船が朝鮮に渡る際に、西風になると進めず、風待ちのためにこの港の停泊するところから、西風の泊りで、西泊。
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