対馬全カタログ「村落」
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2021年2月3日更新
豊玉町
仁 位
【に い】
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卑弥呼の時代から
浅茅湾の北の中心として
上島の発展をけん引
卑弥呼の頃は対馬の主邑か
 仁位周辺は、弥生時代後期の遺跡が多く、特に船着き場近くのハロウ遺跡は、箱式石棺7基、竪穴式石室1基があり、弥生後期後半から終末期の墳墓から土器や広形銅矛などが発見された。さらにそこから3kmほど離れた、仁位浅茅湾の中程にある志多賀黒島の遺跡からは銅矛15本が出土するなど、仁位の当時のあり様を伝える貴重な遺物が発掘されている。
 埋蔵品の中でも、権威を示す鏡・剣・玉、村を守る祭祀に欠かせない平形銅矛、さらに遺跡の密度などをもとに推定すると、卑弥呼の時代=弥生時代後期、仁位周辺が対馬の中心であった可能性が高いらしい。ちなみに仁位の前は三根(弥生中期)、その後は鶏知周辺(古墳時代以後)だそうだ。
50年間、島の政治の中心に
 長崎県の公式ホームページにある「対馬重要歴史年表」には、「1345年 筑前より、二子頼次を派遣し、仁位に政所を開く」と記載されている。まず「二子頼次」とは誰なのか。対馬本や資料では出会ったことがない。『豊玉町誌』P1010に「宗盛国はその第二子頼次に対州の政事を掌らせた」と書かれている。「第」と「二子」は改行で分断されており、「第」を見落とし、「二子」を名字と勘違いしたのではないかと推測した。「宗頼次」は確かに盛国の第二子で、ほとんどの本では「宗香」と記されている。
 第4代島主宗経茂の弟宗頼次が仁位の中村(現在の豊玉高校辺り)に住み、宗香と号し、九州での領土拡大を目指している兄経茂の代官として腕を振るったのが、貞和から永和にかけての約25年間。本によっては仁位宗香、あるいは中村宗香とも書かれている。その跡を継いだ息子の澄茂は、その頃九州で権勢をふるっていた九州探題今川了俊に接近し、本家を差し置いて守護の座についた。さらにその地位を息子頼茂が世襲したが、今川了俊が失脚すると、経茂の孫貞茂との主導権争いに敗れた。宗香まで含めると約50年間の仁位支配だった。
 その3年後、澄茂の兄弟、宗賀茂が反乱を起こしたが、貞茂によって平定された。その後は賀茂の子孫が守護代あるいは郡主として島主の宗本家をサポートすることになり、この関係は長く続いた。

※新しく出版された本では、宗香=頼次とはなっておらず、法名の「宗香」のみを採用している。「頼次」に確かな根拠がないからだと思われる。
※現在の豊玉高校グランドから、中世の布目瓦が採取されたことがあり、この辺が中村館の跡とされている。
仁位の中心。右上の白い建物が豊玉高校。中村館のあった辺り
仁位浜の干拓
 かつて海際は現在の豊玉高校の近くまできており、仁位川は大きく蛇行していた。周辺は広大な干潟だったと想像できる。土地の少ない対馬なので、ここ仁位でも小規模な埋め立てはかなり昔からあったと思われるが、それが大々的に行われたのは1691年(元禄4年)からで、これが最初の藩営普請だった。
 埋め立て事業のことは当時「御開き」と言われた。最初の「仁位浜の御開き」は元禄4年5月にスタートし、同9年7月に完了。「茂志田」と呼ばれるその場所は仁位川東側の一帯で、埋め立てが終わると次は田を作らなければいけないが、その頃開田技術者として一目置かれていた田代領の百姓に開田を任せた。
 仁位川西側のハロウ地区の開田普請は、1723年(享保8年)に始まり、翌年には田植えを行えるほど、短期間で終了した。茂志田の開きの時に、ハロウ地区の方も石垣などは完了し、あとは土を入れ開田するだけの状態だったようだ。
 記録によると、この時点で、茂志田で約2万坪、ハロウで約1万坪、計3万坪。メートル換算だと、約10万平方メートルの土地が生まれたことになる。さらに2年間ハロウ地区では開田が進んだようだが、最終的な開田面積を記した史料が見つかっておらず、ほぼ現況に近い開田が行われたのではないかと言われている。
平らな土地はすべて埋立て地。左側がハロウ
今は懐かしき「渡海船」
 かつて、まだ縦貫道路が完成していない時代、上島・下島間の移動は、仁位と樽ヶ浜を結ぶ「渡海船」という小型船と路線バスに頼るのが一般的だった。厳原から三根や比田勝など大きな村に向かう場合は、月に5便程度の「汽船」という500トンクラスの船の便もあったが、1968年(昭和43年)の南北縦貫道路開通までは、渡海船が大いに利用された。
 仁位と樽ヶ浜の航路は、江戸時代からあったようだ。天保の頃(1830年代)、幕府の巡検使も利用したという記録がある。明治になると個人経営の渡海船が登場したが、本格的な定期運行が始まったのは1908年(明治41年)。当時はまだ漕ぎ船で、機械船になったのは大正に入ってからだった。
 現在、渡海船は市営となり「うみさちひこ」とネーミングされた。1日2便(土・日は1日1便)定期運行され、その他に観光客の浅茅湾周遊などに利用されている。仁位浜の船着き場は仁位の中心から1km以上も離れており、すぐ近くにはハロウ遺跡がある。
現在の渡海船「うみさちひこ」
白いモスクのような建物は・・・
 和多都美神社観光で仁位地区を通ると必ず目に飛び込んでくるのが、白いモスクのような建物だ。この革新的なデザインの建物が建ったのは1990年(平成2年)。当時の名称は「豊玉町文化の郷」。
 その中には「豊玉町郷土館」が入っており、そのコンセプトが「歴史を知り、文化に触れるモダン空間」だそうだ。どうしてモダン空間である必要があるのか、よくわからないが、そういうことらしい。
 建った当時は、対馬にふさわしいデザインかどうか、賛否両論だった。島民の多くは「否」だったようだが、今は仁位地区のモニュメント的な感覚で、島民にもなじんできているようだ。
 なお、「郷土館」は1階と2階の一部で、1階は縄文時代と弥生時代の町内遺跡出土品を展示。2階は現近代の農具、漁具、狩猟用具、生活用具等を展示している。
仁位のシンボルとなった「文化の郷」
特産品アナゴが、対馬ナンバー1の名物料理へ
 いま仁位エリアでもっとも観光客が多く集まるのが、和多都美神社、烏帽子岳展望台、そしてあえて次をあげるとすれば「あなご亭」ではないだろうか。今や仁位だけでなく、対馬の名物として「あなご亭」のアナゴ料理は定番になりつつある。「あなご亭」は仁位浜の船着き場から、さらに海側に少し行ったところだ。
 実は対馬はアナゴの水揚げ量日本一!しかも量だけでなく、質もいい!ときている。
 対馬の西沖、韓国との国境付近の水深200m付近で育つアナゴは、冷たい海の中でイカ、エビ、イワシなどを食べて育つので、肉厚で脂ものってて柔らかくジューシー、ということだ。中でも特上のアナゴは「黄金アナゴ」の名称でブランド化。全国各地に発送され、食通の舌を楽しませている。
 そんなアナゴを対馬で、新鮮な最高の状態で提供できるようにした店が「あなご亭」だ。対馬の海の幸としては少し高価だが、味は料亭並みではないだろうか。いや、料亭以上かも知れない。
「あなご亭」の特上せいろ蒸し定食
【地名の由来】玉を意味する「瓊(に)」を用い、「瓊ノ郡(にのごうり)」とかつて呼ばれたのは、真珠を貢物にしていたからだと。「にのごおり」が転じて「にい」。また、平安時代中期につくられた辞書『倭名類聚鈔』の二十巻本・巻九に、対馬の郷名としてある「向日」は、「荷日」あるいは「而日」の写本時の誤記であろうというのが、多くの郷土史家の意見。平安初期には「にい」であったことがうかがえる。
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