長崎県の公式ホームページにある「対馬重要歴史年表」には、「1345年 筑前より、二子頼次を派遣し、仁位に政所を開く」と記載されている。まず「二子頼次」とは誰なのか。対馬本や資料では出会ったことがない。『豊玉町誌』P1010に「宗盛国はその第二子頼次に対州の政事を掌らせた」と書かれている。「第」と「二子」は改行で分断されており、「第」を見落とし、「二子」を名字と勘違いしたのではないかと推測した。「宗頼次」は確かに盛国の第二子で、ほとんどの本では「宗香」と記されている。
第4代島主宗経茂の弟宗頼次が仁位の中村(現在の豊玉高校辺り)に住み、宗香と号し、九州での領土拡大を目指している兄経茂の代官として腕を振るったのが、貞和から永和にかけての約25年間。本によっては仁位宗香、あるいは中村宗香とも書かれている。その跡を継いだ息子の澄茂は、その頃九州で権勢をふるっていた九州探題今川了俊に接近し、本家を差し置いて守護の座についた。さらにその地位を息子頼茂が世襲したが、今川了俊が失脚すると、経茂の孫貞茂との主導権争いに敗れた。宗香まで含めると約50年間の仁位支配だった。
その3年後、澄茂の兄弟、宗賀茂が反乱を起こしたが、貞茂によって平定された。その後は賀茂の子孫が守護代あるいは郡主として島主の宗本家をサポートすることになり、この関係は長く続いた。
※新しく出版された本では、宗香=頼次とはなっておらず、法名の「宗香」のみを採用している。「頼次」に確かな根拠がないからだと思われる。
※現在の豊玉高校グランドから、中世の布目瓦が採取されたことがあり、この辺が中村館の跡とされている。