2024年11月19日更新
美津島町
根緒
【ねお】
厳原市街と鶏知に近く
「根緒の三島」を眺め暮す。
「石焼き」発祥の村でもある
住むに良し、美景あり
山側を走る国道382号線からはほとんど望むことはできないが、根緒地区は比較的大きな集落だ。家数も多く、人口減少も他の地区ほどではない。厳原市街や鶏知という大きな町に近く、会社勤め、役所勤めには好適なロケーションというのが幸いしているようだ。
その根緒最大の特徴が対馬有数のオーシャンビューである、神ノ島、上根緒島、下根緒島からなる「根緒の三島(みつじま)」だ。かつてはこの景色を眺めるために厳原の富裕層が海岸沿いに別荘を建てることもあった。三島は国道からもよく見え、この景色を眺めて対馬に帰ってきたと実感を強くする帰郷者も多いという。
また、根緒は対馬の名物料理「石焼き」発祥の村としても有名だ。ただ、新型コロナ禍後に、根緒最後の石焼き料理店が廃業し、石焼きファンから惜しまれている。
根緒周辺地図 出典:国土地理院地形図(地名拡大・名所追加等
村の始まりは謎だが、福岡の宗像(むなかた)と関係ありか
根緒周辺に古代以前の遺跡は見つかっておらず、1471年に出された韓国の書『海東諸国紀』では根緒は「尼干浦」という表記で、戸数は10余戸と記録されている。
村には恵比須神社があり、さらに和多都美神社でありながら宗像三神(総本社:福岡県宗像市宗像大社)を祀っている※。海の幸をもたらす神と、航海の安全を祈願する神。その神々を信仰する根緒の人々の根っこは海の民であり、先祖は漁民だったと考えてよいのではないだろうか。土地が狭いことに加え、室町時代に対馬の主産業だった製塩関係の名残や伝承がないことも、江戸時代以前は魚を獲ることを生業としながら代を重ねてきたと想像できる。
室町中期に宗像からやってきた曲(まがり)の海士たち以前に対馬に移り住んだ、宗像の漁師たちがつくった村、あるいは住みついた村ではないかという仮説も成り立ちそうだ。
※ほとんどの和多都美神社は、綿津見三神(底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神)か、豊玉姫・鵜茅葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト:神武天皇の父)を祭っている。
食糧は減ったのに、人口は増えた!?
江戸時代になると島民の漁業が禁じられ、対馬はほぼ農民と府中(厳原)の商人と侍だけの島になった。根緒の漁師たちも鋤、鍬をもち、牛馬を操り、収穫し、年貢を納めた。
1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』には、根緒村のデータとして、物成約16石、戸数10、人口50(10歳以上)、神社1、寺0、給人0、公役人7、肝煎1、猟師0、牛2、馬8、船2、と記されている。物成が16石なら収穫量は4倍の64石となる。これをもとに計算すると村人が口にする麦の量は1年間一人当たり0.42石、一人1日1.16合となる。当時の対馬の村の平均1.3合より少し少ない。
それが1861年(文久元年)には次のように変わっている。籾麦71石、家数16、人口95、男29、女39、10歳以下27、牛6、馬16、孝行芋400俵。麦の収穫量は71石と、11%増。しかし、計算すると(元禄と比較するために11歳以上で計算)、1年間一人当たり0.34石、一人1日0.95合となる。対馬の平均の53%と、かなり少なくなっている。
耕作に相応しい平らな土地が少なく、地形的に干拓が難しいので、根緒の人たちは山を焼いて作付け(木庭作)し、一部は段々畑にし、さらに孝行芋(サツマイモ)を栽培し、牛馬を増やして収量アップを図ったに違いない。
しかし、人口が増えた分だけ、一人当たりの麦の量は大きく減ることになった。ただし、食べるものが大幅に減ったのでは、人口は増えない。
考えられることは、水産物でそれを補ったということだ。地先の海で魚を釣り、海草やサザエを採り、佐野網の請け浦の一つとして地引網を覚え、自分たちでも網を引いたのではないだろうか。
※対馬藩の「物成(年貢)」は収穫量の1/4だが、それ以外に金銭で納める税金「公役銀」を工面するために麦などを売る必要があり、その他の支出も考慮すると、食糧として農民に残るのは収穫量の1/3くらいと考えられている。村によって多少事情が異なるのであくまでも計算値、目安と理解してほしい。
村岡氏の知行地となり「竈(かまど)村」を免除
根緒は1735年(享保20年)に、眼病によって藩主を諦めざるを得なかった村岡左京の知行地となった。根緒は「竈村」六村のうちの一つだったが、村岡家の雑用を根緒の村人で賄わなければならないため、それは免除された。
『対馬藩分限帳』によると村岡家は府内士であり、つまり府中(厳原市街)に住み、禄高500石の他に「根緒一村」と記されており、江戸時代を通して根緒の知行を得ていたことがわかる。また村岡姓の横に「根緒」と付記されているところから、「根緒」と名乗ることもあったようだ。
藩政期が終わって150年以上が経過した今、村岡家が府中に住んでいたことも原因だろうが、現在の根緒の人たちに「村岡家」のことを尋ねても、何のことか?と怪訝な顔をされる。歴史に詳しい人以外、村岡家に関する知識はないようだ。
※竈村(かまどむら):藩の雑事に労働力を提供したり、日用の消耗品等を納入する村
子供率が高かったのは、幸福度の高さゆえか
文久元年の各村の子供の多さを人口比で計算すると、対馬の平均が14.7%のところ、根緒は28.4%でほぼ2倍、対馬1位だ(府中はデータがないので除く)。2位が一重の26.5%で、この2村だけが突き抜けて多く、3位が緒方の22.4%。ほとんどの村が10%台だ。子供が多いと言うことは、“間引き”が少ない、子供を育てる余裕、食べさせる余裕があった、ということだろう。(この点からも農作物の不足を水産物で補っていたと考えられる)
根緒は村岡家の知行地だから、年貢は藩ではなく村岡家に納めることになるが、現金で納める公役銀などはどうなったのだろう。「竈村」も免除され、公役銀がない、となると、他の村よりは暮らしやすかったはずだが、実際はどうだったのか。
同じような村として、 暢孫(ながつぐ)家の知行地となった佐保があるが、こちらの子供率は17.7%。佐保は藩の公役と暢孫家への奉仕という、いわば二重の公役で苦しんでいたが、根緒はどうだったのだろうか。
貴重な戦争遺産、根尾堡塁砲台
明治になり、日本は殖産興業、富国強兵を推進。列強の仲間入りをすると、他国との対立が生まれるようになり、ついには日清戦争(1894年7月~1895年4月)、日露戦争(1904年2月~1905年9月)と、二つの戦争を経験することになった。
戦争の危機感が高まると、国境の島・対馬は、防衛のための大きな役割を担わされることに。それが対馬の要塞化であり、1899年(明治32年)の「対馬要塞砲兵大隊」の成立によって「対馬要塞」が公式名称となった。
1903年(明治36年)3月に、根緒村の後ろにそびえる嵐山に、 ロシアとの戦争に備え、砲台と堡塁(砦)が一体になった根緒堡塁砲台が完成。1904年(明治37年)8月にロシアのバルチック艦隊が日本に向うことを察知すると、下関の笹尾山砲台の28cm榴弾砲を根緒砲台に移設することになった。28cm榴弾砲は日本が初めて製造した大口径火砲で、最大射程7.8kmの対軍艦用の海岸砲だ。
根緒第一砲台の28cm榴弾砲左翼側砲座
堡塁機能がある根緒第一砲台にはこの28cm榴弾砲が2砲座×各2門で計4門。第二砲台と第三砲台には、それぞれ12cm加農砲2門が設置された。
その1.5km西に築かれた上見坂堡塁は、もしもの敵上陸に備え、根緒堡塁砲台を守るための砦だった。つまり、根緒堡塁砲台は死守すべき海防の重要拠点だった。しかし、第一次世界大戦後、旧時代の大砲は役割を終え、1936年(昭和11年)に除籍された。
砲台跡へのアクセスは比較的容易で、根緒坂からかつての軍道を歩き30分ほどで登られる。かつては根緒の小学生たちの上坂までの遠足のコースになっていたそうだ。
左翼側砲座と右翼側砲座を結ぶ通路と砲側庫入口
根緒堡塁砲台の兵舎
石焼き料理は根緒の漁師飯
焼かれた石の上でさまざまな食材を焼いていただく「石焼き」。対州そば、アナゴ料理、“いりやき”などと並ぶ対馬の代表的な郷土料理だが、そもそもは根緒の漁師たちが、たき火で熱した石の上でキビナゴを焼いた漁師飯だった。
それを根緒の家々で、もてなし料理として屋内で振る舞うようになり、島内に評判が高まると石焼き料理を食べさせる店が根緒に誕生。かつては小さな村に3軒の石焼き料理店があった。その内に2軒になり、三味線を聴かせることで有名な「ひさご」が1989年(平成元年)に閉店。そして、2022年5月に、民宿もやっていた「上野荘」が廃業。村外の人間が本場の根緒で石焼きを食べることは叶わぬ夢となってしまった。
石焼きに使う石は石英斑岩という特別な石だが、海岸に行くと転がっている。石焼きが島内の各家庭でも行われるようになり、一時は石を求めて島内から近くの浜に“石狩り”に来る人も多かったそうだ。
根緒茶と対馬唯一の共同製茶工場
かつて対馬藩では茶の栽培を推奨し、茶に税を課していた。『明治4年御国内産物高帳』によると、1871年(明治4年)の茶の生産高は全島で1,000斤=600kgとなっている。決して多くはなく島内消費がほとんどだろうが、対馬産の茶が商品として出回っていた。
根緒周辺の山でも茶が栽培され、根緒には独自の釜炒り茶の製造法があり、根緒産の茶は「根緒茶」と呼ばれ珍重された。1970年(昭和45年)頃は、約30軒が根緒茶の製造を行っていたそうだ。
1982年(昭和57年度)、根緒地区は農村地域定住保護対策事業の補助を受けて根緒茶生産組合を立ち上げ、共同の製茶工場を開設し、対馬全体から製茶の仕事を受け付けていた。2000年(平成12年)に製茶工場に持ち込まれた生葉は8,018kgで、これがその年の対馬の生葉生産量のほぼ全量と考えられている。
仕上がった茶は島内の旅館やホテル、壱岐に販売され、地場産業としての発展を期待されたが、産業として定着することはなかった。製茶工場は各家が自家用茶を製造する場となり、それも2010年頃には閉鎖され、現在茶畑は放置状態だという。
根尾地区全景:かつて山の斜面のいたるところに茶畑があった。後ろの山の中央の峰が根緒堡塁砲台跡のある嵐山
語り継がれる陸良親王(おきながしんのう)陵墓
根緒には「大塔備前守陸良親王陵墓」と呼ばれている墓がある。“陵墓”と呼ばれるのは、皇室系の墓所のことだが、宮内庁が管理を行っている訳ではない。因みに厳原町久根田舎の「安徳天皇御陵墓参考地」は、宮内庁指定の“陵墓参考地”だ。
陸良親王(おきながしんのう)は後醍醐天皇の孫にして、鎌倉幕府討幕に功績をあげた大塔宮護良親王(おおとうのみや もりよししんのう)の第一子で、南北朝時代の南朝の皇族。南朝に背いて戦さに敗れ、南都(奈良市)に逃れてからの消息が不明と言われている。
あくまでも伝説だが、その陸良親王が対馬に逃れ「大塔備前守」を名乗り、その子孫は宗家の家来になったという。陵墓前の説明には「・・・・親王は海路博多に逃れ、宗経茂公を頼り根緒の地を知行所として与えられ、宗氏の女をめとった。自ら大塔備前守と称し宗氏の客将となったが、応永21年82歳でここに没した。・・・・」と記されている。
なお、「陸良親王の墓」とされるものは奈良県吉野郡野迫川村の清久寺の「田村塚」、兵庫県姫路市香寺町の須加院にある「親王塚」などがある。護良親王伝説同様、波乱の生涯を送ったその息子についても、真偽は不明だが各地に語り伝えがあったようだ。
陸良親王陵墓
ご神体は、根緒の三島(みつじま)
島が三つ並んでいるだけだが、根緒の人たちの祖先はそこにパワーを感じ、神を感じた。そして、その一つ一つに宗像の神を宛て、神ノ島(ごうのしま)は多紀理姫命(たごりひめのみこと)、上根緒島は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、下根緒島は多岐都姫命(たぎつひめのみこと)とした。
海の神様には住吉三神、綿津見三神、宗像三神があるが、根緒の人たちが選んだのは宗像の神だった。それは選んだというよりは、自分たちが信仰していた神だったからに違いない。
その神々を拝むために遙拝所を設け、それが現在の和多都美神社となった。神名と社名が符合しない謎はあるが、根緒の人々はそれで何百年も生きてきた。
かつて根緒にも舟ぐろうがあった。旧暦9月13日の鶏知の住吉神社例大祭の翌日、願ほどきのために行われ、船は4尋弱の建網漁の船が使われた。3丁艪でアヤキリもテギタタキもいないが交代要員が乗り途中で変わるという、他の村ではあまり見かけないやり方だった。距離は神ノ島から根緒の浜までの約1km。村の舟ぐろうとしては珍しい長距離レースだった。
手前から下根緒島、上根緒島、神ノ島(ごうのしま)
【地名の由来】 鎌倉から室町時代には「ねう」と呼んだそうだ。『海東諸国紀』で根緒に当てられた朝鮮語の表記「尼干」は「にう」と読め、古称の「にょう」の発音を表わしたとも考えられる。江戸時代の『津島紀事』では名の由来は,根山の根浦の意味で,「ねほ」が転訛したものというが、それが「ねう」や「にょう」にはつながらないように思う。北方に「ねえら(ないら)」という海岸,同じく「根曽(ねそ)」という浦があり,それらとの関連も考えられるという。
Ⓒ対馬全カタログ