対馬全カタログ「村落」
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2021年2月1日更新
豊玉町
水崎
【みずさき】
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途絶えた営みを
復活させたのは
島外からの移住者だった
営みが消えた謎
 水崎は、「外浅茅(そとあそう)」と呼ばれる朝鮮海峡側浅茅湾の北岸にある、東加藤、西加藤、加志々の3地区をまとめた俗称。あえて言えば浦の総称で、行政地名としては存在しない。さらに東加藤は貝鮒の飛地、西加藤は嵯峨の飛地、加志々は唐洲の一部となっている。
 遺跡の発見により、縄文時代、弥生時代にここに人々の営みがあったことがわかっているが、中世から近世にかけては無人だったという。その理由はわかっていないが、ここが3つの村によって分割されていたことが関係しているのかも知れない。江戸時代後期には廻の鯨組に加わった呼子(現佐賀県呼子)の海士たちが一時定住していたが、明治の初めには1戸もなかったという。
加志々(住所は唐洲)
西加藤(住所は嵯峨)
東加藤(住所は貝鮒)
広島出身者を中心とした島外漁民が再興
 現在の水崎は、明治30年前後から移住してきた、広島県長浜の漁民を中心とした集落。彼らはタイの一本釣りを得意としたが、タイは漁期も長く、夏にイカ釣りを行えば年間通して稼ぐことができるということで定住した。
 また、江戸時代後期から真珠を求めて浅茅湾に入っていた大村藩(現長崎県)の海士が、明治の終わり頃にここに小屋をつくり定住していたと言われている。ほとんどの家が他所から移住してきた、いわゆる寄留の部落であったが、ここでは寄留であっても土地所有が認められた。
 定住者が増え村が形成されると、自分たちの氏神様を祀ろうということになり、1920年(大正9年)、広島県賀茂郡広村(現在の広島県呉市広地区)の入江神宮神社に分祀を申し入れ、入江新宮神社乃霊を祭神とした入江神社を、港を見下ろす山の上に創建した。
 ほとんどの住民が広島出身者の2世、3世、4世。今でも広島弁の訛りが残っているそうだ。
山の上に建つ入江神社
入江神社からの眺め
加藤海底遺跡が伝えるもの
 1968年(昭和43年)に加藤小学校の前の浜で児童たちが多数の石器を採集した。造船場建設のために海底が掘り起こされたことが幸いし、古代の営みの跡は3000年の眠りから覚めることになった。
 遺跡は3つ層に分かれ、1.3~1.4mの層から縄文後期の鐘崎式土器、1.5m前後の層から中期末の南福寺式土器、1.8mの深部から早期の押型文土器が見つかった。
 また、縄文中期の層からは、瀬戸内の船元式土器や朝鮮系の櫛目文土器も出土し、かの時代においても広く交流、交易が行われていたことを伝えた。対馬、日本において、貴重な発見となった。
 また、興味深いのは土器包含層の断絶で、前期から中期の大半、7000年前から4000年前くらいの間は何も出土せず、これは海のエリアが広がることによる水没、いわゆる「縄文の海進」によるものではないかと言われている。一説によると、海面が4~5m高くなったと言われている。加藤海底遺跡の場合、その後一度陸になり、現在はまた海になった、ということになる。
 なお、この付近では箱型石棺など弥生時代の遺跡も発見されている。
【地名の由来】 「水崎」の由来として、小字でミジラギというところがあるらしく、それが転じてミズサキになったという説があるが・・・。「ミジラギ」は水開きの意味らしいが、どうして水開きなのかが分からない。
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