1968年(昭和43年)に加藤小学校の前の浜で児童たちが多数の石器を採集した。造船場建設のために海底が掘り起こされたことが幸いし、古代の営みの跡は3000年の眠りから覚めることになった。
遺跡は3つ層に分かれ、1.3~1.4mの層から縄文後期の鐘崎式土器、1.5m前後の層から中期末の南福寺式土器、1.8mの深部から早期の押型文土器が見つかった。
また、縄文中期の層からは、瀬戸内の船元式土器や朝鮮系の櫛目文土器も出土し、かの時代においても広く交流、交易が行われていたことを伝えた。対馬、日本において、貴重な発見となった。
また、興味深いのは土器包含層の断絶で、前期から中期の大半、7000年前から4000年前くらいの間は何も出土せず、これは海のエリアが広がることによる水没、いわゆる「縄文の海進」によるものではないかと言われている。一説によると、海面が4~5m高くなったと言われている。加藤海底遺跡の場合、その後一度陸になり、現在はまた海になった、ということになる。
なお、この付近では箱型石棺など弥生時代の遺跡も発見されている。