明治時代になると、旧氏江家屋敷に長崎県対馬島庁(その後支庁に)が置かれ、馬場筋の名家の多くが暮らしの困窮により家屋敷を手放した。
また、対馬をあとにする士族も多く、明治26年までに宮谷から海を渡った者、外国(ほとんど朝鮮)に80名、福岡などの他府県に29名、長崎県内の都市に63名となっている。宮谷が武士の町だったことを考慮と、そのほとんどは士族だったと思われる。
1922年(大正11年)には、“宮谷の丘(成相山麓)”に、対馬総町村組合の運営による長崎県対馬高等女学校の新校舎が建設され、翌年には県立となって対馬の女子教育に貢献した。それから27年後、1949年(昭和24年)に、対馬高等学校(男女共学)の開校により発展的に閉校された。