対馬全カタログ「村落」
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2020年7月26日更新
厳原町
宮谷
【みやだに】
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石垣の町は、今も
江戸時代/府中の
佇まいを残す
ここは武家屋敷の町
 対馬最大の街である厳原は、豆酘や小茂田も含む下県郡厳原町の中心であり、町名と街の名が同名。封建時代は「府中」と呼ばれ、明治になって「厳原」というまったく新しい名が与えられた。宮谷は厳原市街13地区のひとつ。桟原屋形(城)に近いので武家屋敷が多く、その石垣が観光スポットとして多くの観光客を集めている。道は舗装され、川に落ちないように柵が設けられたが、石垣のほとんどは江戸時代のものだ。
 ただ石垣の裏は現代の暮らしがあり、現代の家が建つ。旅行者が宮谷を歩くコツは、舗装された道路や、川べりの柵、現代の家をカッコに入れて(忘れてとまでは言わないが)、侍たちの往来を想像してみることだ。
防火壁(火切り石)
立派な屋敷は対朝鮮対策
 現在の長崎県対馬支庁の周囲は、ひときわ立派な石垣が残っている。かつての家老氏江家の屋敷跡で、長屋門などを見てもその格の高さがわかる。現在の国道382号線沿いには、宗家一門や、家中でも裕福な上士の立派な構えの屋敷が並んだ。また、この一角は宗家の中屋敷とかご隠居屋敷と呼ばれたそうだ。
 江戸時代、この通りは「馬場筋通り」と呼ばれ、朝鮮通信使たちの行列も通った。藩は朝鮮に対する体面のために、家臣にかなり無理をさせたようだ。一筋裏、二筋裏に置かれた少禄の武士たちの屋敷には庭園ではなく菜園があり、そこにはつつましい武家の生活があった。
家老氏江家の長屋門
氏江小路
士族の転出と女学校
 明治時代になると、旧氏江家屋敷に長崎県対馬島庁(その後支庁に)が置かれ、馬場筋の名家の多くが暮らしの困窮により家屋敷を手放した。
 また、対馬をあとにする士族も多く、明治26年までに宮谷から海を渡った者、外国(ほとんど朝鮮)に80名、福岡などの他府県に29名、長崎県内の都市に63名となっている。宮谷が武士の町だったことを考慮と、そのほとんどは士族だったと思われる。
 1922年(大正11年)には、“宮谷の丘(成相山麓)”に、対馬総町村組合の運営による長崎県対馬高等女学校の新校舎が建設され、翌年には県立となって対馬の女子教育に貢献した。それから27年後、1949年(昭和24年)に、対馬高等学校(男女共学)の開校により発展的に閉校された。
【地名の由来】 第16代島主宗義調がこの地に隠居所を構えたときに、神祠の近くであることにちなみ地名を「宮谷」とし、「宮谷館」と命名した。「宮」は谷出橋の西上方にある風神の祠と言われている。
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