対馬全カタログ「村落」
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2024年5月7日更新
上県町
御園
【みそ】
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平地のない海付きの村は
農本主義の江戸時代を
どう乗り越えたか
室町時代後期から歴史に登場
 御園(みそ)は、上島西海岸中央部、仁田湾沿岸の村の一つで、かつてこの地方の二大主邑だった伊奈と仁田(樫滝・飼所・瀬田)の中間に位置し、この近辺では珍しく家々が密集し、かつては人口密度も高かった。
 耕作地がほとんどなく、海には3本の防波堤があり、見るからに農業の村ではない、おそらく漁業中心の村であろうと考察できる地区だ。
 初めて御園の名が記されている史料が、1513年(永正10年)の伊奈郡主 宗国親が発給した文書で、「一所、みそのはたけ」と書かれているそうだ。
 その後、1534年(天文3年)、1573年(元亀4年)の文書にも登場し、畑や場所を特定するための地名として使われているが、いつ頃からの村なのか、村としての起源を教えてくれる史料は見当たらないようだ。
対馬の村では珍しい密集度(2003年)
仁田湾周辺地図   出典:国土地理院地形図(村名拡大等)
畑から、海へ
 中世のどこかで村が起こったと考えられるが、その頃は平地のほとんどが畑で、家が数軒だけの集落だったのではないだろうか。おそらく1500年頃までは。しかし、その後、御園に貿易商が誕生することになる。その貿易商は地侍(土豪)で御園の権力者だったはずだが、彼は何を商っていたのだろうか。
 新興の貿易商が何を商材にできるかと考えれば、やはりまずは本拠としている村の生産物ではないだろうか。その時代の対馬の輸出品としては“塩”が有名だが、1500年は製塩をはじめるには遅すぎ、御園には塩竃があったことを感じさせるものも記録もない。
 土地が狭く、商品となる農作物も期待できない。そうなるとあとは漁業しかない。狭い浦は風波をしのぐには適しており、船を係留するには好適地。魚を加工し朝鮮半島で食糧と交換することが、中世後半の貿易へとつながっていったのではないだろうか。
中世末期は貿易で活躍
 16世紀に島主である宗家は、家来や地侍(土豪)に対して彼らの信頼を得て帰属意識を高めるために、朝鮮との通行権益を付与する文書「書契」を発行した。それを記録した「書契覚」の中に、仁田湾の村々の土豪が登場している。
 そのことが詳細に書かれている荒木和憲著『中世対馬 宗氏領国と朝鮮』には、「書契」を発行された貿易商の村として、御園の名が載っている(残念ながら貿易商の名前は記されていない)。その貿易商たちは島主から書契を発給してもらい、朝鮮との貿易で活躍したそうだ。
 また、彼らを取り込もうとして当時の島主と伊奈郡主が競って官位や名を与えた。最後は島主が勝つのだが、江戸時代になるとすぐに村々で貿易ができなくなり、御園から貿易商=地侍はいなくなった。
 御園は1812年(文化9年)まで給人不在だったので、その貿易商は農民になったか、府中に出て商人になったかのどちらかだろう。
防波堤はこの外にもう1本設置されている
御園周辺地図   出典:国土地理院地形図(地名・施設名・遺跡追加、地名拡大等)、長崎県遺跡地図
元禄時代は、一人1日当たり=麦0.8合
 漁業と貿易で成り立っていた御園は、その二つが禁じられた農本主義の江戸時代、どのようにして営みを継続したのだろうか。元禄時代と文久時代の二つの史料で、御園の江戸時代を訪ねてみる。
 下記の元禄時代の『郷村帳』によると、物成(年貢)約26石は決して多いとは言えないが、居住区以外の平地がほとんどないこの村で、どうしてそれだけの(物成の4倍の)収穫を得ることができたのだろうか。
 村の北東の山の上に「壇の平」と呼ばれる5町歩ほどの山畑があり、そこが御園の食糧供給源、メイン耕作地、となっていたようだ。麓の寺・常昌寺の横から肥料などを上げたそうなので、麦を栽培していたはずだ。
 それでも一人当たり1年間の食べられる麦の量は0.29石(10歳以上の人口で計算)。1日当たり0.8合※。対馬の村の平均1.3合の6割ほどと、極めて厳しい食糧状況だった。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約26石、戸数22、人口118(10歳以上)、神社1、寺1、給人0、公役人13、肝煎1、猟師16、牛7、馬13、船5

※対馬藩の「物成(年貢)」は収穫量の1/4だが、それ以外に金銭で納める税金「公役銀」を工面するために麦などを売る必要があり、その他の支出も考慮すると、食糧として農民に残るのは収穫量の1/3くらいと考えられている。
芋を麦に交換してしのぐ
 1860年(安政7年)に出された対馬藩士・中川延良の見聞録『楽郊紀聞』に御園村の話として、次のようなことが載っている。
 「御園村の人はよく働き、雑穀を食べている。今の季節は栗や梨などを煮て、夜食には蕨の根のセンを食べ、孝行芋も食べる。孝行芋の切干しをたくさんつくり、それを伊奈の鯨組に持っていって、米(多分、麦の間違い)と換える。伊奈に鯨組がいないときは、芦浦や廻の鯨組まで出て行く。このようにして、村では麦を千俵以上も手に入れる。」
 「千俵以上」には誇張があるかも知れないが、御園はこのようにして不足分を補ってきたのだろう。
 孝行芋(対馬ではサツマイモをこう言う)は平地が少なく、木庭作、山畑作に大きく依存する御園でも確実に収穫できる、農民孝行の作物だ(そこから「孝行芋」と名付けられた)。1861年(文久元年)は2,000俵だが、おそらく毎年ほぼ同量の孝行芋を収穫していたのではないだろうか。

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦129石、家22、人口114、男44、女54、10歳以下16、牛29、馬0、孝行芋2,000俵
耕さない木庭(こば)作から、耕やす木庭作へ
 上の二つのデータ、元禄と文久のデータを比べると、牛と馬の頭数に明らかな違いがあることに気付く。
 牛は7頭から29頭に増え、馬は13頭から0頭になっている。これは“運搬”より、“耕作”を重視したということに他ならない。
 ここから考えられるのは、耕作をする必要がほとんどない木庭作から、山畑作、あるいは耕作する木庭作に生産手段の主流が変わったということだ。
 木庭作は一般には「焼畑」とも言われるように、山の森林を燃やしてその灰を肥料にして農作物を育て、土の栄養分が少なくなると場所を変えるというシンプルなものだった。
 ところが耕作する木庭作は、焼いた後に唐鋤(からすき)で耕し、牛の入るところは牛に犂(すき)をつけて起こす。牛が入るところには孝行芋を作り、孝行芋と麦の二毛作をすることも多かったそうだ。これによって単位面積当たりの生産量も増え、より効率的な農業が可能になったということだろう。
 このような耕す木庭作が普及したのも、栽培の容易な孝行芋のおかげ、その“孝行”の一つということになるだろう。
明治になると船が5倍増
 1872年(明治5年)に作られた『郡村誌』によると、御園は、田1反、畑16町、宅地9反、山林58町、戸数23,人口(10歳以上)123,牛26,馬0、船3、となっている。
 おそらく文久の頃と大きく違いはないと推測できるが、その約20年後の1891年(明治24年)になると、船が15艘と大きく増えている。
 おそらく明治5年の船3艘は村船で、採藻や村人の共同作業などに使うための船だったと考えられる。ところが15艘となると、共同所有もあったかも知れないが、その多くは個人所有の船、いわばマイカーならぬ“マイボート”ではなかっただろうか。
 近隣の村との往来や、農作物の運搬、それともちろん漁でも使ったはずだ。また、漁業が解禁された明治になると、船を持つ家と持たない家との格差も生まれてきたのではないだろうか。
 そしてこれが、「御園は漁業の村」と言われるようになる第一歩だったのではないだろうか。
【地名の由来】 かつては「味噌」とも「三岨」とも書いたそうだ。1645年(正保2年)の記録に「三岨」と書かれているところから、「三岨」が本来の地名と考えている郷土史家もいるようだ。もし「三岨」であれば、由来は「三峰の険しい山があるから」となり、村の奥にそびえる200~250mの山々が命名に貢献したということになる。
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