2024年11月19日更新
豊玉町
見世浦
【みせうら】
対馬の村では若い、120歳
移住イカ漁師がつくった
対馬でよくいう「寄留の村」
イカ漁師にとっては宝の海
文化年間(1804年~1818年)に宗家が広島藩の浅野家と姻戚関係になったことが切っ掛けで、広島からの出稼ぎ漁を藩が認めることになった。それが対馬に広島人が多い理由だが、江戸時代はあくまでも旅漁師で、対馬に住みつくことは許されなかった。
明治に入り、藩が消滅すると、それまでのような入漁に対する規制がなくなり、多くの県から対馬への出稼ぎ漁が急増。東海岸の漁場は、季節によって獲れるイカの種類は変わるが、ほぼ一年中漁が行え、イカ漁師たちにとっては宝の海だったようだ。
初めの頃は漁が終わると地元に戻っていたイカ漁師たちは、明治20年頃からは帰らずに対馬に住むようになった。
1904年(明治37年)のデータだが、対馬でイカ釣り漁に従事していたのは3,489戸。その内豊玉町東海岸を拠点にしていたのが224戸だった。見世浦にも多くのイカ漁師が住んでいたに違いない。
ちなみに、見世浦の住所は「対馬市豊玉町横浦」。江戸時代から半島(長崎半島)全体が横浦の土地。見世浦に住むには、横浦の地主たちとの賃貸契約が必要だった。
見世浦周辺地図 出典:国土地理院地形図(地名拡大)
隠居してから夫婦で開墾
明治29年(1896年)に横浦の住人である斉藤秀之助・ます夫婦が隠居とともに開墾を開始、明治33年に竣工。息子がそれを祝い、父母のために開墾碑を建てた。その碑文を要約すると次の通り。
ここは岩山が海に迫り、人が住む場所がない。生来勤勉なわが父秀之助は、56歳の老躯であったが、明治29年に同年齢の妻ますとその子供たちとともに開墾プロジェクトをスタートさせ、明治33年に竣工した。そこでその功績をたたえるとともに、子孫が見習う鑑とすべくこの碑を建てる。 明治33年5月 斎藤秀敏
わざわざ開墾碑を立てるくらいだから、それが最初の開墾と考えられ、この頃から見世浦の歴史が始まったとされている。
斎藤家の開墾碑:空家となった斎藤家の庭の茂みの中に、120年以上も前に建てられた開墾碑は今も立っている
船だまりからイカの処理加工&干し場、そして村へ
実は夫婦が開墾をスタートさせる2年前、明治27年に山口県から転籍したイカ漁師がいた。その一家が最初の住人ではないかといわれているが、それ以前から見世浦はイカ釣り船の船溜りとして利用されていたようだ。
水揚げされたイカは保存が利くようにすぐに処理加工し、乾燥しなければいけないが、その仕事を目当てに横浦の住民は見世浦に頻繁に来ていたようだ。その中には見世浦に仮屋をつくる者もおり、斉藤夫婦も最初はそうだったのかも知れないが、仮屋ではなく埋め立てなども行って土地を整備し、家を造ったということだろう。
その後、明治30年代に広島・愛媛・徳島・壱岐等からの移住者が続き、見世浦は活気にあふれたという。
浦の最奥部に金刀比羅神社が祀られている。請来された時期はわからないが、イカ漁師たちが対馬とそれぞれの地元とを往復する航海の安全、大漁を願って建立したものだろう。
見世浦イカ漁の現在
昭和の頃はイカ漁に湧いた見世浦だが、現在、見世浦でイカ漁を行っているのは1軒だけだそうだ。港湾設備の整っていない見世浦では、大型船は着岸、水揚げができないので、比田勝の方で水揚げし、船もそちらに係留しているという。
全国的に農業だけでなく漁業の方も担い手不足が続いているが、その家では船員としてインドネシア人2名を雇用し、寮として別棟を建てるなど、担い手不足に積極的に対応しようとしている。
イカ漁の衰退は人口減少にも大いに影響してくる。南隣の賀谷地区では、新潟や鳥取県境港の方に出漁して、向こうに住み着いた人も多いという。果たして見世浦の人たちはどうなのだろう。
対馬のイカ水揚げ量の推移:対馬のイカ釣りは、昭和30年代の自動巻上げ機とパラシュートアンカーの普及により発展したと言われている。1973年(昭和48)、1980年(昭和55年)、1992年(平成4年)をピークに盛り返しながらも漁獲高は徐々に減少。近年の燃油高騰が加わり収益が悪化していることから、出漁を見合わせる船も多いという。
漁場に近いから、オテド(落土)に住んだ
移住者の中には、漁場により近い入江に住み着いた人たちもいた。そこがオテドだ。手漕ぎ船でも10分ほどで漁場に到着できたという。昭和の初め頃は家が20軒ほどあったそうだ。
細い入江だが、外海に直線的に開いているので、風の方向によっては波がきつい。それでも、何よりも漁場が近いというメリットは大きかったに違いない。
その後、機械船が普及してくると、生活のしやすい塩浜に移る人たちも出てきて、オテドの人口は徐々に減っていった。
【地名の由来】 過去の文献に「見世浦」の由緒をさぐる手がかりがみつからないので、あくまで私見として地形から考察してみた。S字に湾曲した浦の地形には凸部に瀬が形成され、数えると3つの瀬があったことから「三ッ瀬(みつせ)浦」→「三瀬浦」へ変化し、漢字表記として「見世浦」が採用されたのではないだろうか。2015年5月の『広報つしま』の「わがまち再発見」コーナーにも、見世浦の地名の由来として同様の説が紹介されている。
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