2022年10月28日更新
峰町
三根
【みね】
弥生の海は
谷の奥深くまで至り
そこにクニを育んだ
変わらないのは清流だけか
日本一美しい清流にも選ばれた三根川は全長6km。高野山を源流に狭い谷を流れ落ち、蛇行し、三根湾に至る。下流部は潮の干満で大きく水位を変えるが、それはかつてはそこが海だったからだ。「開き(干拓)」によって田畑を、あるいは宅地を拡大しながら、村は海側に細長く伸び、村の端から端までは直線距離で約2.5kmにもなった。そして、対馬市が誕生する2004年まで、三根郡、三根郷、峰村、峰町と、対馬では唯一昔からの地名と地域を維持してきた行政区「峰」の中心であり続けた。
また、1441年(嘉吉元年)九州から撤退してきた少弐氏は三根中村(現在の中里)に迎えられ、「三根公方」と呼ばれてそこを拠点としたが、1497年(明応6年)の筑前の戦いに破れ、大内氏と権勢を競ってきた名家少弐氏は亡んだ。
「中里」と「上里」(右上)
左下の「浜」から「田志」「下里」「中里」「上里」「大久保」と、三根川の流れに沿って長く伸びる散村、それが「三根」 出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡名追加)
弥生時代は対馬の中心
三根には弥生時代中期から後期にかけて墳墓遺跡が多く、ここが当時の対馬の中心地だったと言われている。その頃を想像するには、現在の田や住宅地のほとんどを海と考えればいい。
ガヤノキ遺跡は石棺墳墓数が多く、出土品からみてその中のひとつが弥生時代の対馬の首長の墓と推定されている。そこから三根川の対岸にある高松壇遺跡、600mほど上流にある坂堂遺跡。これらはすべて、入り江に突き出た岬に設けられた墓だった。
坂堂から対岸に渡りしばらく行くと、多数かつ多様な土器片が出土した井手遺跡。抉入石斧(えぐりいりせきふ)も発掘されており、大陸系磨製農耕具を使った初期の農耕が行われていたと考えられている。
1993年(平成5年)に発見された山辺(やんべ)遺跡は井手遺跡からさらに上流にあり、対馬では珍しい住居跡遺跡だ。当初からもっと広範囲の遺跡「三根遺跡」の一部と考えられており、三根遺跡はその当時の対馬の中心的なクニであったというのが、対馬考古学の定説になっている。
山辺遺跡の発掘調査(2003年)
「開き」が三根の発展を牽引
1884年(明治17年)に編纂された『上下県郡村誌』によると三根の物産には海産物がなく、ほとんどが農産物で生産量も豊かだ。この生産力を可能にしているのが開拓で得られた広い農地。江戸時代に「開き」と呼ばれた干拓で、1821年(文政4年)から開始された三根浜の開きは、2度の大洪水にプロジェクトを阻まれながらも10年の歳月を費やして完成した。200年以上前に増やし、長く食を支えてくれた田畑だが、今はそれを持て余すように休耕田が増え、雑草が生い茂っている。
また、明治末期から大正にかけて島内外からの移住者が三根湾奥の北岸に居住するようになり、まもなくして海岸沿いが埋め立てられ「三根浜」という新しい集落が形成された。ここがその後の三根の中心となり、1927年(大正13年)には戸数178戸、人口951人と、1884年(明治17年)に比べ、戸数・人口とも2倍以上に増え、新しい三根がスタートすることになった。
写真の奥が三根湾。平地はすべて干拓地だが、右側のような休耕田も広がっている
干拓以前の広かった三根川河口:中央に写っているのが三根大橋、左側の集落が三根浜(1962年) 写真提供:宮本常一記念館
交通の要衝として発展
三根は長く上島西海岸の交通の要衝であった。対馬六観音のひとつ十一面観音を祭った観音堂もあり、江戸から明治にかけて六観音参りで島民の往来は盛んだったようだ。さらに峰郷の中心でもあったので、人馬が通るための最低限の道路網は整備されていた。
三根の観音堂
誰もが待ち望んだ三根大橋
文明開化の明治になっても道路開発の波は対馬には及ばず、開発が始まったのは大正に入ってからだった。対馬縦貫道路は1918年(大正7年)に工事がスタート。最初に手が付けられたのは、仁位~三根間、比田勝~佐須奈間だったが、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の復興のために中断した。(厳原~鶏知間は既に軍道として完成していた。)
結局、厳原から三根までのバス運行(途中渡海船を利用)が可能になったのは1953年(昭和28年)。1958年(昭和33年)年には三根川を越える三根大橋が完成。比田勝まで行けるようになったのは1962年(昭和37年)から。厳原から比田勝まで陸路、バスだけで行けるようになったのは1968年(昭和43年)になってからだった (但し、その後3年間は途中で小型バスに乗り換え) 。
最初のコンクリート製三根大橋(1962年) 写真提供:宮本常一記念館
三根大橋 (2021年)
陸路開発の遅れを汽船がカバー
福岡と対馬の間だけでなく、昭和30年代は島内も「汽船」と呼ばれる貨客船が利用された。バスと違い、浅茅湾で渡海船に乗り換える必要がないので、日程が合えば汽船を選ぶ人が多かった。三根(三根浜)に寄港する西沿岸航路は月に5便くらい。三根湾沿岸の村々への行くには、三根浜の桟橋で「渡船」に乗り換える。
道路網の整備が進み、1971年(昭和46年)にバスで厳原から比田勝まで乗り換えなしでいけるようになると、汽船利用者は急激に減り、島内航路は1978年(昭和53年)に廃止された。
三根も近隣の村への中継地、生活品の供給地としての役割を終え、さらに人口も1960年を境に減りはじめ、賑わいや活気は次第に失われていった。
島内航路の汽船(1960年頃)
三根浜の桟橋(1963年) 写真提供:宮本常一記念館
シャインドームと温泉と、盆踊りの復活
平成の三根のトピックスと言えば、遺跡発見を除けば、テレビ番組の公開録画も行われる総合体育館「シャインドーム・みね」(1996年開館)と、「峰温泉 ほたるの湯」(2005年)、それに「三根上里盆踊り保存会」の発足ではないだろうか。
「ほたるの湯」は、泉質は単純泉。源泉が30℃なので少し加温しているが、良質のお湯が豊富に湧出し、源泉かけ流しだ。
「三根上里盆踊り保存会」は、400年あまりの伝統を後生に繋いでいこうと、29年間途絶えていた盆踊りを1989年(平成元年)に復活させた。以降30年間、毎年盆踊りを奉納している。
三根川に映るシャインドーム・みね
【地名の由来】 かつて峰郷の中の大きな村であったのが由来か。かつては「峰」と書かれたことも。また郷名の「峰」は、郷内にある三つ峰をもつ霊峰を由来とし、かつては「三峯」と書かれたこともあった。
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