対馬全カタログ「村落」
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2024年2月11日更新
美津島町
箕形
【みかた】
i
塩の村に武士はなく
自分たちで知恵を出し合い
助け合い生きてきた
箕形の製塩のはじまりは平安時代か?
 箕形浦の中ほど西側海岸の小さな岬2カ所に、弥生時代から古墳時代のものと思われる墳墓遺跡「箕形遺跡1」と「箕形遺跡2」があり、箕形にも古くから人が住んでいたと考えられている。
 長く洲藻の枝村として扱われてきたこと、氏神様が塩竈神社であることから推察すると、洲藻出身者がこの浦に住み着き、ある時期から製塩が事業として営まれてきたと考えられる。
 『美津島町誌』には、『対馬島誌』に「王朝の時箕形浦に塩浜を受く」と神社の由緒について述べられているところから、創業時期を平安時代としている。
 ちなみに日本に「揚浜式塩田」が誕生したのは平安時代後期。対馬の古文書に初めて「塩田」という言葉が現れるのが1228年(安貞2年)、鎌倉時代になって約40年後。ほぼ一致している。
箕形周辺地図  出典:国土地理院地形図(地名拡大、遺跡等追加)長崎県遺跡地図
箕形浦
箕形の製塩は鎌倉時代のベンチャ
 鉄製大釜の製造技術が確立されたのが鎌倉時代初頭と言われている。その後、その大釜を使った「煮塩(製塩)」が全国に広がり、その大釜が福岡で生産されるようになると、九州各地でも製塩が盛んになった。対馬の古文書で「しおかま(塩竃)」が初めて登場するのが1319年(元応元年)、鎌倉末期だ。おそらく対馬で製塩が産業として盛んになったのは鎌倉中期~後期ではないだろうか。しかし、それ以前に箕形では塩浜(塩田)と土器釜を利用した塩づくりが行われていたということだろう。
 当時としては新しいタイプの事業として、いわばベンチャーとして始まった箕形の製塩事業。ベンチャーには欠かせないのが、強いリーダーシップと資金調達力だが、創業期と考えられる平安後期から鎌倉前期といえば、まだ宗氏支配が未完成な時期だけに、中心となったのは地元の有力者。洲藻をベースに一帯を支配した洲藻の土豪(地侍)だったと考える方が自然だろう。
 12世紀前後の洲藻の土豪は、「浅茅七浦の支配者」ともいわれた田原(俵)氏。おそらくその一族が箕形の塩浜に関わったはずだ。
塩竈神社:製塩業の終焉とともに乙宮神社に変わるところが多い塩竈神社だが、箕形では塩竈神社として継続(但し『美津島町誌』には「別名乙宮神社ともいった」と書かれている)。旧暦9月29日には塩竃神社大祭が開催される。
300年も続いた製塩と交易
 1471年(文明3年)閏8月15日の宗家文書に、11の塩竃からの税の徴収権を知行として直属の家臣に与えるというものがある。その塩竃の中に「みかた」の名前もあり、15世紀後半も箕形の製塩業は経営されていたことがわかる。
 海水を煮るために必要な山林資源(薪)の喪失により、対馬の製塩業が衰退していく16世紀前半まで、箕形の人々は塩づくり中心の暮らしをしていたのではないだろうか。神社の由緒書き「王朝の時箕形浦に塩浜を受く」の“塩浜を受く(塩田を開く)”を信じると、箕形の製塩は約300年間続いたことになる。まさしく箕形は“塩の村”だった。
江戸期に米麦の収穫量が減ってしまった謎
 江戸時代になると規模の違いはあっても、対馬では農地の開発が盛んになり、ほとんどの村で米麦の収穫量が増えたが、箕形では少し事情が違うようだ。
 1700年(元禄13年)には物成(年貢)22石だから、収穫量はおよそ88石と算出できるのだが、1861年のデータでは収穫量が62石と3割も減っている。これほど減少している村は他になく、1つの村だけに飢饉が起こることも考えられず、数値を疑ってみたくなる程だ。もしかすると、後述する箕形の特殊事情、縣浦の水田に海水が流入する等、問題が発生したのかも知れない。
 それほど収穫量が減っているのに、人口・家数はほとんど変わっていない。孝行芋が減少分をカバーしたとも考えられるが、村人の暮らしは極めて厳しかったことが想像できる。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約22石、戸数16、人口73、神社1、寺0、
給人0、公役人9、肝煎1、猟師0、牛0、馬1、船4

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦62石、家18、人口87、男38、女37、
10歳以下12、牛9、馬10、孝行芋340俵
給人不在の村らしい共助
 『元禄郷村帳』のデータにあるように、元禄期は給人のいない村だったが、1850年(嘉永3年)も給人はいなかった(『八郷給人分限帳』による)。
    給人のいない村は“開発”という投資を行いにくい環境だったのか、藩の許可を得にくかったのか、開き(干拓)が積極的に行われない傾向がある。それが収穫量アップの足かせにもなっているようだ。箕形もそのような村の一つではなかっただろうか。
 なお、箕形には村に関する文書を保管する箱があり、そこには江戸時代の年中行事や村規約、入会い林の管理、さまざまな普請に関する決り事などの記録が多数保存されているそうだ。これこそ給人がいなかった村の、村人たちの頑張りの証しではないだろうか。
リスクの共有と平等・公平の精神で水田管理
 箕形浦の南東部、縣浦にある水田は開き(干拓)によって開発された農地で、全体に水を行き渡らせるために「井樋(いひ)」と呼ばれる、田に高低差を設け水を供給する用水システムを採用している。
 その井樋の要が水門で、これによって水の供給量と海水の流入防止をコントロールする。その管理は何百年も住民が当番制で行っている。
 また、水田は海に近いほど地面が低く、海水が入れば浸水のリスクが大きい。そこで箕形では、水田の耕作者を3年交代のローテーションで行うことで、平等と公平を保ってきたという。
 しかし、その箕形伝統のシステムそのものを脅かしているのが、温暖化が原因と考えられる高潮位。大潮の時は海水が堤防を越えていくことが増えてきたそうだ。さらにそれに台風などによる暴風雨が加われば、海水は奥の方の水田まで達し、耕作を不可能にする。
2022年9月、対馬に甚大な被害をもたらした台風11号は、縣浦の堤防も破壊し、海水は奥の方の田まで侵入。水田として利用できる面積を大きく減らした。(2023年4月撮影)
現在の水門(写真左下)。この開閉で水位を調整する(2021年撮影
助け合うためにさまざまな「講」が生まれた
 月に一定額(1,000円が多い)ずつ出し合い、それを貯めて、病気にかかった時、入学式など、大金が必要な時に、そこのお金を使わせてもらうという互助システム「講」が、箕形では盛んに運用された。
 出産などに備える女性だけの講がつくられたこともあったし、船をつくるための「舟講」というのもあったそうだ。
 また、講ではないが、戦時中、農作業を村総出で行う時などは、二人の女性(嫁と姑)が参加している家すべての夜の食事をつくるようにして、農作業に集中できるようにした。夫や息子が召集され、一人残された場合は、その家の男仕事を助けるようにしたり、村全体としてさまざまな助け合いを行ってきたそうだ。
部落集会の時は鐘を鳴らした
 共助の村でもっとも重要なのは「話し合い」だった。かつては「寄合い」などと呼ばれたが、いつの頃からか箕形では「部落集会」と呼ばれるようになった。
 全員に集まってほしい時は、櫓の上から鐘を叩き、鐘が鳴れば全員が集まってきた。今は屋外スピーカーだが、何百年もの間、鐘が利用され、その度に村人は集まり、村のさまざまなことが話し合われ、決められた。
厳格な箕形伝統の本前制度
 現在、年に1回の最も重要な部落集会は「総会」と呼ばれ、これは「本前」全員出席となっている。「本前」とは家の代表のことで、世帯主とほぼ同義だが、代表権者、責任者というニュアンスが強い。
 箕形には全員出席の行事が年に3つある。その一つが「総会」で、ほかに「お釈迦様」と呼ばれる釈迦の誕生祭、「氏神様大祭」と呼ばれる塩竈神社大祭がある。「総会」は本前自身が出席しなければならないが、ほかの2つは代理でもよいことになっている。代理と言っても、先代の本前(現本前の父親)が第2番目代表権者で、第3番目が妻。その二人に限られている。
昭和は真珠養殖、平成以後はシーカヤック
 昭和の箕形を記す上で、大洋真珠株式会社は欠かすことができない。養殖筏は箕形浦に散在し、事業所は箕形浦奥の東岸にあった。現在シーカヤック基地となっている場所だ。
 大洋真珠箕形事業所は1954年(昭和29年)に開設され、箕形の多くの人を雇用し、箕形の暮らしを支えてきた。1990年代後半の撤退とともに多くの箕形の人たちは退職。退職金などで家を建て替えたところも何軒かあったそうだ。
 撤退後の土地・設備は、その数年後からシーカヤック基地として再利用され、現在、対馬エコツアーと対馬カヤックスの2社がシーカヤック体験事業を運営している。
かつての大洋真珠箕形事業所の地は、現在シーカヤックの基地に
英国博物館に箕形浦のムール貝
 ささやかな歴史の一コマだが、対馬では有名なロシア軍艦ポサドニック号事件の2年前、1959年(安政6年)の4月に、イギリスの調査船アクテオン号が尾崎沖に20日間ほど停泊。浅茅湾を測量・調査し、白嶽にも登ったという事件が発生した。
 そのアクテオン号の1959年の航海記を、翌年アーサー・アダムスが出版。その中には対馬調査の成果も書かれてあり、ムール貝の小湾(Mussel cove)として箕形浦が、カキの入江(Oyster sound)=黒瀬湾とともに紹介されていた。
 そのムール貝の殻は、今もおそらくコレクションとして大英博物館の倉庫に眠っているはずだ。
【地名の由来】 浦の形が農具の「箕(み)」に似ているところから、という説以外に納得できる説が出てきていない。箕は、大きなちり取りのような形状で、竹を編んで作る。脱穀した穀類の殻やごみだけを風でふるい飛ばす作業に使用する。
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