対馬全カタログ「村落」
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2023年1月10日
豊玉町
【めい】
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かつて隕石が落ちてきた。
で、明るい星の「明」が
転じて「銘」になった
この村のキーワードは「隕石」
 明星嶽に、明嶽神社、「銘」ではなく「明」という字が多いのは、遠い昔に隕石が落ちてきて、それを神と崇めたからだった。確かに隕石は大気圏に突入すると強烈な光を放ちながら落ちてくる。それが村の裏山に落ちたなら、昔の人がその強力なパワーに神を感じてもおかしくない。
 この村は、かつては一つ北の浦、現在カニアリ浦と呼ばれているところにあったそうだ。隕石が落ちて、それを明星として祭るようになって、現在の地に移ったと、江戸時代の地誌『津島紀事』には書いてある。
  隕石後に村移りをし、浦名を「明星浦」として、その後に「明浦」に変え、いつしか村名が「銘」になって現在に至っているそうだ。
 「めい」と古文書に表記されはじめたのが戦国時代であるところから、隕石が落ちたのは、室町時代以前ということになる。
銘周辺地図  出典:国土地理院地形図(地名拡大・名所旧跡名追加)
5浦納得の雨乞い神事、明星社
 銘の集落から北に300mほどの小さな浦・カニアリ浦にその祭殿はあった。社殿はなく、5尺(約1.5m)四方の自然石の上にさらに石を積み上げた壇があるのみで、ご神体は集落裏の山頂に立つ老松の根元にある石。祭神は不明だ。
 古くから干ばつの時に雨乞祭が行われるだけで、それ以外の祭はない。雨乞い専門の神様ということになる。
 雨乞祭は田、銘、小綱、大綱、志多浦の5村共同で行われ、ご神体の石を祭殿に移してから、願掛けをしたあとに石をカズラで縛り、決められた磯の穴に納める。
 雨が降れば、祈願成就の願ほどきが盛大に行われ、浜で宴会が催され、相撲を取ったりしたそうだ。最後には5村対抗の舟ぐろうなどもあったという。そして、石を山に戻したそうだ。
カニアリ浦の明星社祭殿。天気予報という科学が普及し、出番はなくなったようだ
明星社は明嶽神社になったのか
 明嶽神社は鳥居と階段周辺の雰囲気がよく、写真映えするからか、ガイドブックに載ることも多いが、比較的新しい神社だ。
 『豊玉町誌』によると、明嶽神社はかつては「三千間神社」あるいは「三千軒神社」と呼ばれ、祭神は里人の祖霊で、ご神体は石。少なくとも昭和初期までは「三千軒神社」で、昭和20年11月に建立された鳥居の表札に「明嶽神社」と掲げられ、現在に至っている。
 また、祭神に雷大臣命が加えられ、由緒に「中世明星嶽神社といい、又、嶽神社と称したが、創立年暦は不詳である。大正4年1月「神社明細帳」に編入」とある。
 祭神に雷大臣命に加えたということは、雨をもたらす力を祭神として配慮したということであり、これが明星社を意識してのことであるなら、明星社=嶽神社ということだろうか。
 つまり、明星社(嶽神社)+三千軒神社=明嶽神社。大正4年にそのようなことになったようだ。
明嶽神社の鳥居
江戸時代、わずかな土地も開墾し、
生産高は1.73倍に
 対馬は平地が少ないが、江戸時代は島民の漁業は禁止され、農業に専念しなければならなかった。土地の少ない村では、耕したくても耕す土地がない。だから耕作地を増やすための開拓が必須だった。
 銘は、極めて土地の少ない村だから、米麦の生産量が少ない。江戸時代の2つのデータでその変化を追うと、銘村の特徴が浮かび上がった。
 1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』によると物成(年貢)が約16石だから、生産量は64石で、村に残るのは48石。人口で割ると年間一人当たり0.96石(10歳以下含まず)で、対馬の平均1.1石よりも少ない。 
 しかし、160年後のデータでは、生産量は111石と1.73倍に。これは対馬ではかなり優秀な数字だ。おそらく銘の人たちは、耕せるところはすべて耕したのではないだろうか。銘浦、カニヤリ浦の海岸は石垣だらけだ。海に面したわずかな土地でも石垣を積み、山の斜面を崩して土地をならし、そこに麦などを植えたのではないだろうか。
 生産量が増えると、銘では家を増やし、人を増やした。だから一人当たりの麦の量は1.03石とわずかしか増えていないが、より多くの人間が生きることができた。
 しかし、2023年現在、家数は8軒だそうだ。過疎化の波は先人の頑張りや願いを容赦なく覆していく。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約16石、戸数11、人口50(10歳以下含まず)、神社1、寺1、給人0、公役人4、肝煎1、猟師0、牛7、馬0、船3

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦111石、家16、人口99、男39、女42、10歳以下18、牛12、馬0、孝行芋425俵
海岸線の凹んでいるところはほとんど耕作地になった
江戸時代に開墾されたであろう、海外沿いの耕作放棄地(石垣は比較的新しい)
【地名の由来】 本文参照
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