対馬は平地が少ないが、江戸時代は島民の漁業は禁止され、農業に専念しなければならなかった。土地の少ない村では、耕したくても耕す土地がない。だから耕作地を増やすための開拓が必須だった。
銘は、極めて土地の少ない村だから、米麦の生産量が少ない。江戸時代の2つのデータでその変化を追うと、銘村の特徴が浮かび上がった。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』によると物成(年貢)が約16石だから、生産量は64石で、村に残るのは48石。人口で割ると年間一人当たり0.96石(10歳以下含まず)で、対馬の平均1.1石よりも少ない。
しかし、160年後のデータでは、生産量は111石と1.73倍に。これは対馬ではかなり優秀な数字だ。おそらく銘の人たちは、耕せるところはすべて耕したのではないだろうか。銘浦、カニヤリ浦の海岸は石垣だらけだ。海に面したわずかな土地でも石垣を積み、山の斜面を崩して土地をならし、そこに麦などを植えたのではないだろうか。
生産量が増えると、銘では家を増やし、人を増やした。だから一人当たりの麦の量は1.03石とわずかしか増えていないが、より多くの人間が生きることができた。
しかし、2023年現在、家数は8軒だそうだ。過疎化の波は先人の頑張りや願いを容赦なく覆していく。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
物成約16石、戸数11、人口50(10歳以下含まず)、神社1、寺1、給人0、公役人4、肝煎1、猟師0、牛7、馬0、船3
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦111石、家16、人口99、男39、女42、10歳以下18、牛12、馬0、孝行芋425俵