対馬全カタログ「村落」
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2020年7月29日更新
豊玉町
【まわり】
かつては馬と鯨で
名を馳せたが、
今は穏やかな半農半漁の村
戸数の減少が穏やか
 朝鮮海峡に突き出した唐洲半島の北面にある廻地区は、1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』に登場し、すでに戸数20戸の集落をなしていた。発生当初は耕地となる平地は狭かったはずで、地先と朝鮮海峡からの収穫を生活の糧にしていたと想像される。
 1700年(元禄13年)の「郷村帳」には、戸数40戸、人口209人、牛26頭、馬3頭、船3艘。1884年(明治17年)の「郡村誌」では、戸数35戸、人口201人、牛35頭、馬29頭、船15艘。明治になると、農業主体は変わらないが、漁業が自由化され、物産としても水産物が増えている。
 その後、生業の中心は漁業に変わっていくが、廻が特徴的なのが、戸数の変化があまりないことだ。2015年(平成27年)で戸数45戸、人口101人。1960年(昭和35年)の55戸が最多だが、それほど大きく減っていない。これは子供らが跡を継げるということであり、仕事の見通しがつくということに他ならない。
名工の遺産と良馬の産地
 唐洲半島の先端部にある池田は、中世に沼(池)を開拓して田をつくり池田をそのまま地名とした。その池田を農地として活用するには、海からの風を防ぎ、溜まってしまった水を抜く工夫が欠かせないのだが、その工事が行われたのは文化文政の頃というから、1800年代初頭だ。
 藩命を受け、“土木の名人”増田定七(1784~1839年)が取り組んだプロジェクトは、海側に石を積み上げて堤防をつくり、その上に松を植えて風を防ぎ、堤防の中央に水門を設けて水を調節できるようにするというものだった。今は、松は枯れてなく、水門も改造されて当時のものではなくなったが、堤防だけは昔のまま。「池田の堤」として市指定文化財に登録されている。
 また、池田の周辺は「池の原」といい、御用牧(藩営牧場)のあったところで、良馬の産地とも言われている。宇治川の先陣争いで有名な名馬「池月」誕生の地とされる伝説があるが、「池月の産地」伝説は東北から九州まで、さもありなんという説がかなりある。本戸に比べ本格的な武士の登場が遅れた対馬で軍馬を育てることができたか、疑問ではある。
200年前のものとは思えない、美しく積み上げられた「池田の堤」
往時を偲ばせる鯨組の墓
 江戸時代、廻は捕鯨基地=鯨組の据浦として賑わった。1675年(延宝3年)、小田善左衛門が大規模な納屋を浦口の寺崎島につくったのが始まりで、その後、服部組、土肥組などの鯨組が春納屋を設け、時々空浦になりながらも、1861年(文久元年)に亀谷組が浦替えを申し出るまで、約200年続いた。
 いま鯨組の名残をとどめるものは、暗い林の中に乱立する鯨組の墓のみ。その多くは鯨にとどめを差すべく巨体にへばりつき、鯨ととも海中30mまで潜ってゆく、命知らずの羽差たちの墓なのだろうか。廻と唐洲の間のあり、案内板も建てられている。
寺崎島は、かつては砂州でつながった陸繋島だったが、今はコンクリートで繋がっている
廻の鯨組の墓地には、墓標のあるものが13基
捕鯨の流れをくむ盆踊り
 その勇壮さにおいて鯨組は廻の人々に影響を与えたようで、300年の伝統を誇る盆踊りにもその名残があるという。全国盆踊り大会で1位に輝いたこともあり、若い踊り手が少なくなった現在も、保存会の手で守られ、毎年8月12日に披露される。盆踊りの保存をはじめ、地区としてのまとまりがよいのも廻の特徴であるらしい。
【地名の由来】 浅茅湾を出て北に向かう時にここで回るので、廻。
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