対馬全カタログ「村落」
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2020年7月29日更新
厳原町
【まがり】
漁師の中の漁師
「鐘ヶ崎海士」、
定住して「曲海士」となる
鐘ヶ崎漁師、対馬へ
 鎌倉時代に筑前鐘ヶ崎から対馬に来た漁師が、江戸中期にこの地に定住したのが、曲海士の起こり。一説(旧記留書)によると、1442年(嘉吉2年)の少弐氏の九州からの敗走時に、それを助けたことから、特権的漁業権を得たとされている。また、別説には、鎌倉時代宗氏入島を助けたからとも、1402年(応永9年)の宗賀茂の乱を鎮めるために宗貞茂に従ったからとも言われている。
 対馬八海(周辺全域)の網漁・イルカ漁を宗氏から認められた「八海御免」のお墨付きをバックに、東海岸の鴨居瀬紫瀬戸と鶏知の高浜を拠点とし、一年のほとんどを対馬で、海の上で過ごした。
対馬で生きるために定住を選択
 1683年(天和3年)、千尋藻(ちろも)で海士が藩の鉄砲方ともめ、殺害してしまったことから、その咎めとして海士はイルカと鮪の立切網の権利を失った。多分そのことと、漁法の変化により大型網を置く納屋が必要になったこと、さらに鯨漁に参加し冬も対馬で働くこと等もあり、元禄年間に曲に定住するようになったと言われている。これは、「曲海士」という呼称が初めて文書に登場するのが1722年という事実とも符合する。
 海士が曲を選んだ理由は、目の前の阿須湾が藩主に献上する魚を獲る御菜浦であること、その役は海士が賜っており、藩主の住む府中(現厳原)に近いことなどが考えられる。さまざまな権益は失ったが、権益代わりに課せられた海産物の上納義務は継続されていた。
男は鯨組の刃刺か、差人か
 鯨漁は1400年頃から対馬でも行われていたことを伝える記録はあるが、詳しいことはわからないらしい。江戸時代になってすぐに紀州の太地で突取法による捕鯨がはじまると、それが西日本に普及し、鯨漁は盛んになった。
 対馬では1637年(寛永14年)、府中浦(今の厳原港)で紀州勝本の鯨組が突取法のデモンストレーションを行ったのがはじまりのようだ。その後、紀州からだけでなく、壱岐、平戸、大村、小値賀(おじか:五島)などから鯨組が押し寄せた。
 突取法では、鯨を銛(もり)で突き、場合によっては鯨と海に潜ることもある「刃刺(はざし)」と呼ばれる仕留め役が重要だが、潜る技術に優れている海士たちは刃刺として重用され、鯨たちと渡り合った。1791年(寛政3年)には、曲の海士たちは藩の保護のもと、伊奈の茂江浦へ鯨組を組織して進出するが、繋営は難しく長続きはしなかった。
 また、男子は差人(さしびと)として藩命によって府中に呼び出され、府士(府中に住む藩士)の家に下男同様に仕えなければならなかった。鯨組の刃刺と、府中仕えの差人によって男は村を留守にすることが多く、海に潜って鮑を採る役は女に移った。
鮑の干物で外貨獲得に、海女が活躍
 鮑を煮て干した「明鮑」(めいほう・みんぱう)が、中華料理の食材としてシナへ輸出できるようになると、藩は鮑採りを奨励するようになり、曲の女たちは稼ぐために海女になった。藩にとっても重要な働き手であった。
 1764年(明和元年)の文書に「享保18年(1733年)に、賄い方に鮑をおさめない日があったので、平戸領から小値賀海人3人をやとい、未納分の鮑を全部おさめさせることができた」とある。曲の海女たちが多数病気にかかったためとのことだが、鮑が藩にとって大事な商品だったことがわかる。
戦後の曲は、普通の漁村に
 明治になると曲村は鶏知村に属したが、1908年(明治41年)に現在のように厳原町に編入された。町村制による変化はあったが、明治になっても曲海士の「八海御免」は慣行漁業権として効力を発揮し、ほぼ江戸時代同様の漁が可能だった。
 しかし、その終わりは突然やってきた。1951年(昭和26年)の「漁業法」改正で、それまでは島内どこでも自由に潜って貝などを採っていた慣行漁業権が廃止され、他の海区での潜水漁業ができなくなった。現在、曲の漁民は潜らず、通常の専業漁民として漁業に携わっている。
道路に沿いに漁船が連なる
【地名の由来】 浦の入口近くにあり、浦に入る際に「入り曲がる」ところから、この名になったと言われている。
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