2023年11月7日更新
厳原町
曲
【まがり】
漁師の中の漁師
「鐘ヶ崎海士」、
定住して「曲海士」となる
鐘ヶ崎漁師、対馬へ
鎌倉時代に筑前鐘ヶ崎から対馬に来た漁師が、江戸中期にこの地に定住したのが、曲海士の起こり。一説(旧記留書)によると、1442年(嘉吉2年)の少弐氏の九州からの敗走時に、それを助けたことから、特権的漁業権を得たとされている。また、別説には、鎌倉時代宗氏入島を助けたからとも、1402年(応永9年)の宗賀茂の乱を鎮めるために宗貞茂に従ったからとも言われている。
対馬八海(周辺全域)の網漁・イルカ漁を宗氏から認められた「八海御免」のお墨付きをバックに、東海岸の鴨居瀬紫瀬戸と鶏知の高浜を拠点とし、一年のほとんどを対馬で、海の上で過ごした。
対馬で生きるために定住を選択
1683年(天和3年)、千尋藻(ちろも)で海士が藩の鉄砲方ともめ、殺害してしまったことから、その咎めとして海士はイルカと鮪の立切網の権利を失った。多分そのことと、漁法の変化により大型網を置く納屋が必要になったこと、さらに鯨漁に参加し冬も対馬で働くこと等もあり、元禄年間に曲に定住するようになったと言われている。これは、「曲海士」という呼称が初めて文書に登場するのが1722年という事実とも符合する。
海士が曲を選んだ理由は、目の前の阿須湾が藩主に献上する魚や鮑(あわび)を獲る御菜浦であること、その役は海士が賜っており、藩主の住む府中(現厳原市街)に近いことなどが考えられる。いくつかの権益は失ったが、権益代わりに課せられた海産物の上納義務は継続されていた。
また、曲は隣村である小浦の土地の一部であり、現在もそれは変わらない。共有地が多いので名義変更が難しく、曲の人たちの土地所有の壁となっている。先祖代々300年住んでいても、いまだに賃貸料を払っている家も多いそうだ。
曲周辺地図:鐘ヶ崎海士が、府中(厳原市街)最寄りの海沿いに住むには、「曲」がベストだった 出典:国土地理院地形図(地名拡大、神社名追加)
男は鯨組の刃刺か、差人か
鯨漁は1400年頃から対馬でも行われていたことを伝える記録はあるが、詳しいことはわからないらしい。江戸時代になってすぐに紀州の太地で突取法による捕鯨がはじまると、それが西日本に普及し、鯨漁は盛んになった。
対馬では1637年(寛永14年)、府中浦(今の厳原港)で紀州勝本の鯨組が突取法のデモンストレーションを行ったのがはじまりのようだ。その後、紀州からだけでなく、壱岐、平戸、大村、小値賀(おじか:五島)などから鯨組が押し寄せた。
突取法では、鯨を銛(もり)で突き、場合によっては鯨と海に潜ることもある「刃刺(はざし)」と呼ばれる仕留め役が重要だが、潜る技術に優れている海士たちは刃刺として重用され、鯨たちと渡り合った。1791年(寛政3年)には、曲の海士たちは藩の保護のもと、伊奈の茂江浦へ鯨組を組織して進出するが、経営は難しく長続きはしなかった。
また、男子は差人(さしびと)として藩命によって府中に呼び出され、府士(府中に住む藩士)の家に下男同様に仕えなければならなかった。鯨組の刃刺と、府中仕えの差人によって男は村を留守にすることが多く、元来彼らの素潜り漁は男女を問わなかったが、曲定住が始まった頃から漁の主役は女に移った。
鮑の干物で外貨獲得に、海女が活躍
鮑を煮て干した「明鮑」(めいほう・みんぱう)が、中華料理の食材としてシナ(中国)へ輸出できるようになると、藩は鮑採りを奨励するようになり、曲の女たちは稼ぐために海女になった。藩にとっても重要な働き手であった。
1764年(明和元年)の文書に「享保18年(1733年)に、賄い方に鮑をおさめない日があったので、平戸領から小値賀海人3人をやとい、未納分の鮑を全部おさめさせることができた」とある。曲の海女たちが多数病気にかかったためとのことだが、鮑が藩にとって大事な商品だったことがわかる。
海女たちは対馬沿岸を漁場とし、遠出をした時は家船を住まいとしたが、家船がいつの時代に曲に登場したかは明確ではない。18世紀初め頃の対馬藩の古文書に、鐘ヶ崎のアマが船を住まいとしていたという記録はあるそうだが、それが今でいう家船(屋形船)、船上に小屋を有する船であったかどうかは明確ではない。
最後の海女船(屋形船)と1950年頃の曲(山住神社前) 写真提供:宮本常一記念館
明治になると曲村は鶏知村に属したが、1908年(明治41年)に現在のように厳原町に編入された。町村制による変化はあったが、明治になっても曲海士の「八海御免」は慣行漁業権として効力を発揮し、ほぼ江戸時代同様の漁が可能だった。
しかし、その終わりは突然やってきた。1951年(昭和26年)の「漁業法」改正で、それまでは島内どこでも自由に潜って貝などを採っていた慣行漁業権が廃止され、他の海区で自由に潜水漁業ができなくなった。ただ地先権のある地区の許可をもらえば素潜り漁を行うことができたが、次第にそれも減り曲近くの漁場に限られるようになっていった。
いま曲には海女のなり手はいないそうだ。2023年現在、約110世帯約170人のうち専業漁民は30人足らず。イカ、ヨコワ、ブリ、アラ(クエ)などの釣漁を主とし、その中の3人(男)が素潜り漁も行っているという。
道路に沿いに漁船が並ぶ(2003年)
「曲の海女」として生きて
日本の海女の一系統として知られ、海女関係の書籍に取り上げられることの多い「曲の海女」だが、いま曲に海女はいない。
その「曲の海女」として最後まで海に潜っていたのが、香月ツルエさん(1936年生まれ)だ。母親が海女で、家船で対馬全島を回った。母親が海に入っている間は弟たちの子守をし、母親が船に上がって休憩している間、「取っておいで」と放られたサザエを取りに潜るという訓練を10歳くらいから受けたそうだ。
前述の「漁業法」改正の時は15歳。それまでは、家船で対馬中を回った。船を停めた浦では物々交換で食料を得、風呂も使わせてもらい、船で寝た。
結婚するまでは気の合った3人、あるいは5人で船に乗り込んで漁を行った。結婚してしばらくは夫と漁を行うことが多かったが、母親と島の西側に遠征することもあり、次男は西海岸の小茂田で生まれた。
海女たちにとって画期的だったのは、1961年(昭和36年)に曲にやってきた“ダッコちゃん”※(ウェットスーツ)の登場だという。採寸しそれぞれの体に合わして誂えるのだが、当時3万円もしたそうだ。しかし、それによって長く潜れ、冬の漁も楽になった。
仲間と70歳頃まで一緒に潜り、サザエやアワビを獲った。仲間が海女を引退するのにともない仕事としての素潜り漁はやめ、その後は健康のために潜り、ついでにサザエなどを採った。
※ダッコちゃんとは、昭和30年代中頃に流行った、腕に抱きつくビニール製の人形。全身が黒かったので、当時の黒いウェットスーツの俗称となった。
2018年、香月さんはドキュメント映画に出演することになった。「曲の海女」として自分たちのルーツである鐘ヶ崎(現在は「鐘崎(かねざき)」と呼ばれている)を訪ね、海に潜り、その顛末が映像として記録された。
ドキュメント映画『つれ潮』(山内光枝監督・撮影)は、「東京ドキュメンタリー映画祭2019」で上映され奨励賞を受賞。海とともに、自然とともに自分の人生を生きぬいてきた人の確かさ、見事さが多くの人に感銘を与えた。ちなみに「つれ潮」の意味は、潮の流れに従って進むことだ。
2015年、香月ツルエさんは79歳で潜り、サザエを採った 写真(2枚とも):山内光枝氏
「柳踊り」が魅了する、曲の盆踊り
曲は村の成り立ちからして他の村と大きく異なっていたが、盆踊りに関しては大きな違いは見受けられない。それは盆踊りが村々に伝わったのが、元禄から享保にかけて、つまり曲村の成立の頃とほぼ一致するからだろうと推測できる。
対馬の村々に伝わる盆踊りは江戸時代の初め頃、1650年前後に藩主の上覧を目的に城下である府中の町衆によって始められ、「町躍り」と呼ばれたそうだ※。それを村々でも行うようになったのが1700年前後。一種の流行りとして全島に広がっていったようだ。できたてホヤホヤの曲村の盆踊りは少し遅れて、他の村に負けじと始まったのではないだろうか。
対馬の盆踊りは、広場で大勢が円陣をつくって踊るのではなく、男性だけが二列縦隊に並んで踊る。踊りの種類は、「手踊り」「扇踊り」「綾踊り」「笠踊り」など多彩で、さらにその村独自の踊りもある。
「柳踊り」は曲でしか見られない。しかも曲の盆踊りの最後に踊られ、見物客誰もが見惚れる美しい踊りだ。踊り自体も難しく、踊り終わると、踊り手も緊張感から解き放たれ、安堵と喜びの笑みがこぼれる。
※「町躍り」以前、1500年頃から、お盆には藩士たちによる念仏踊りが披露され、後に「御卵塔風流」と呼ばれた。
盆祭りのステージでトリをつとめる「柳踊り」(2015年) 写真:山内光枝氏
曲の盆踊り、「ユネスコ無形文化遺産」に
300年近い伝統を誇るであろう曲の盆踊りだが、存続の危機は常にあるという。昭和50年頃に途絶えたのを、1988年(昭和63年)に青年団が中心になり復活。そして、1991年(平成3年)に「曲郷土芸能保存会」が設立され、今日に至っている。
2008年(平成20年)には、東京で開催された平成20年度国際民俗芸能フェスティバルに、曲の盆踊りが日本代表として出演。曲に伝わっている4つの踊りの中から「扇踊り」と「柳踊り」を披露し、喝采を得た。
2022年には、対馬の盆踊りが「ユネスコ無形文化遺産」に登録され、曲の盆踊りもその中に含まれている。残すべき民俗芸能としてユネスコのお墨付きをもらったといえる。
しかし、現在、曲の盆踊りは少子化が原因で存続の危機に瀕している。2023年も開催されたが、踊り手不足で「柳踊り」は舞えなかった。開催年も、毎年開催から、2年に1回→3年に1回→4年に1回と、間隔を開けながらなんとか続けているのが現状だ。曲の底力に期待したい。
【地名の由来】 浦の入口近くにあり、浦に入る際に「入り曲がる」ところから、この名になったと言われている。
Ⓒ対馬全カタログ