対馬全カタログ「村落」
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2023年5月27日更新
厳原町
久和
【くわ】
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江戸期に家数が1.64倍増と
対馬一の増加率を誇った村は
久和姓発祥の村でもある
人の営みは弥生時代から
 地形的にみて弥生時代以前からの村ではないかと言われてきたが、村の東側の畑地から弥生時代の遺物包含地が発見(久和遺跡)され、弥生時代に人の営みがあったことが証明された。
 ただその後の歴史をたどれる資料がなく、初めて文書に登場するのが鎌倉時代。一挙に千年を下ることになる。
 1263年(弘長3年)、『内山家文書』に「くわのむらのところ一所」が売買されたという記録があり、売買の対象となる私有地が存在したことがわかる。
久和周辺地形図  出典:国土地理院地形図(地名拡大、地名追加等)、長崎県遺跡地図
西日本の「久和さん」の起源地
 久和地区は「久和」姓の多いことで知られている。「久和」という名字をホームページ『名字の由来』で調べると「対馬国下県郡久和村が起源(ルーツ)である、桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)清盛流宗氏族。近年、長崎県の対馬に多数みられる。崇神天皇の四道将軍大彦命の家臣吉田久美彦を祖とする場合もある。」とある。
 この中で「崇神天皇」以下は富山県の「久和」姓の起源の説明だ。前半の対馬の「久和」姓の説明に従うと、かつて対馬国の守護、その後に対馬藩主になった宗氏に繋がる家系であると書いてある。鎌倉時代に宗氏の対馬進出に従い、対馬にやってきた武士の一派ということだろうか。
 その一派がこの地に住み、新たに「くわ」と命名したか、それ以前に「くわ」という地名があったから、自分たちの姓を「くわ」にしたのかはわからない。
「くわ」という地名の由来は「鍬」か「桑」か
 江戸時代後期の対馬の史誌『津島紀事』には久和の地名の由来として、「久和とは桑林のこと」と書いてあるそうだ。クワという言葉は植物の桑か、農具の鍬しかないので、地名の由来としては「桑」が適当ではないか、というのが『津島紀事』の一文を紹介した『厳原町誌』執筆者の見解だ。
 かつて久和には桑畑があったということだろうか。
 ちなみに養蚕は、弥生時代後期には日本に伝わっており、絹織物の技術も283年に朝鮮半島の秦氏が対馬を経由して日本に伝えているので、久和に桑畑があっても不思議ではない。
室町時代は塩づくりを生業に
 1471年(文明3年)8月に宗貞国から宗中務少輔にあてた安堵状に「くわのかま」があることから、久和にも塩竈があり、製塩が行われていたことがわかる。
 同じ年に朝鮮で発刊された『海東諸国紀』に、対馬の説明として「四面は皆石山にして土痩せ民貧し。煮塩・捕魚・販売を以て生と為す」と書かれているように、室町時代の対馬の主産業のひとつは製塩だった。
 対馬でつくられた塩の多くは朝鮮半島に移出され、その対価として米穀を得たと考えられている。前述の安堵状は土地の代わりの給分として塩竃が宛がわれたことを伝えるものであり、久和産の塩も朝鮮まで売りに行ったに違いないが、久和から朝鮮までは距離もある。その苦労が想像できる。
 『海東諸国紀』に久和浦20余戸とあるが、製塩関係の施設が入っていたかも知れない。
 また、対馬では珍しく、久和では昭和20年代まで塩づくりが続いたそうだ。あくまでも自家で消費するために作っていたということだろうが、海水を煮るために必要な燃料としての木、豊かな森林資源があったからこそ可能だったのではないだろうか。
江戸時代に家数が対馬で最も増えた村!?
 江戸時代の対馬の村々のデータをまとめた資料として、1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』と、1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』がある。この約160年離れた二つのデータを比較検討すると、村々の大まかな推移がわかってくる。
 久和の場合、特に目立っているのが、米麦の生産量と、家数の増加だ。農作物の生産は天候に大きく左右されるので、年によって大きく増減することもあるが、それは対馬全体の同じ傾向をたどるだろうから他の村との比較は有効だろう。
 久和では、1700年は物成から計算すると米麦の生産量は80石。それが1861年には140石となっており、1.75倍の大幅増だ。
 また、それに伴い家数も増えているのが久和の特徴だ。家数は17戸から28戸へと、1.64倍。これは対馬一だ。江戸時代の対馬でここまで増えるのは極めて珍しい。
 160年で11戸増だから、あくまでも想像だが、給人であった久和氏2家の次男あるいは三男が、開きで農地を増やし、百姓竈を手に入れ、分家として独立したということではないだろうか。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約20石(生産量80石)、戸数17、人口82、神社1、寺1、給人2、公役人4、肝煎1、猟師3、牛6、馬13、船6

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦140石、家28、人口155、男67、女59、
10歳以下29、牛9、馬31、孝行芋900俵
「裏浜」にはいろいろあった
 久和地区の南西に地元の人が「裏浜」と呼ぶ土地がある。ここが久和の農地拡張の鍵を握っていたのではないだろうか。山の斜面には段々畑の石垣が今も残されている。
 ここには「八棟造」という所があったそうだ。金掘り金吹きたちの小屋が8棟あったということではないかと、1964年刊行の『新対馬島誌』に載っているが、ここで金が採れたという資料はない。
 また、同じく『新対馬島誌』に、かつて「鍋掛松」があったが枯れて現在はないという情報も載っているが、こちらは地元の人にも確認できた。
 山形県中山町の最上川の河岸には有名な鍋掛松があり、川舟を待つ人たちがその松の枝に鍋を掛け、棒鱈や里芋を煮て食べたそうだ。裏浜の鍋掛松も、鍋を掛けるのに最適な枝があり、同様の使い方のしたのかも知れない。
 地元の人が「かまや殿(かまやどん)」と呼ぶ台座のようなものがあるらしい。その前を通る時は、石を放って供えてから通らなければならないと言い伝えられている。
現在は「浦浜海水浴場」と呼ばれる海水浴場になっている
かつての田畑には木々が生い茂り、作物を潮風から守るための石垣には角のない浜の石が使われた
江戸時代の開墾されたと思われる段々畑跡
秋祭には芝居を奉納
 昭和20年代、旧暦8月16日・17日に行われる乙和多都美(おとわたづみ)神社の秋の大祭では、神社前の広場で、地元の有志(男子)による芝居が演じられた。
 専門の師匠を招いて指導を受け、1ヵ月間仕事を休んで練習に励むという熱の入れようで、
 芝居の評判は周辺の村にも伝わり、芝居を見るために山を越え、あるいは船に乗ってやってきた。隣村の内院とは芝居の面白さ、芸のうまさなどで競い合ったという。
 また、芝居の前には盆踊りを踊るのが恒例だったそうだ。
乙和多都美神社
白熱の演技に湧いた神社前広場
盆踊りの練習は社会勉強の場でもあった
しかったらしい。それは盆踊りが老若の交流の場でもあり、村の伝統とともに礼儀作法を伝える場でもあったからだそうだ。村の青年は盆踊りの修得を通して世間を学び、一人前になっていった。
 残念ながら人口の流出とともに踊り手が揃わなくなり、伝統の盆踊りは踊られなくなったが、仙人かつらを被ったり女装したりして笑いをとったり、とにかく地区の人を楽しませるためにみんな頑張ったそうだ。
 久和の盆踊りは、祝言、手踊り、綾踊り、まわり踊りの4種類。祝言は振り袖、それ以外は踊り着物か浴衣を着て踊った。
祝言という踊りのために、男たちは振り袖を着た  写真提供:堀江政武氏
お盆に今も続いている「エヅリ」
 現在、久和のお盆は新暦で行われている。盆踊りはなくなったが、8月17日の精霊流しの日、久和では朝の6時に「エヅリ」作りがはじまる。
 「エヅリ」とは、何十年も伝わっている太い竹の台座に三角のふさをいくつも付け、その先に切ってきたばかりの青笹(竹の先端部)を付けて長さ6mほどに延長。その青笹に色紙などを飾り付けたものだ。(写真参照)
 お盆の一連の行事の締めくくりとして行われるのが「エヅリ指し」で、エヅリを水平にして前後に振り(これを「指す」という)、この時に仏様(霊)が笹に乗ると考えられており、重さが増すとも言われている。
 この仏様が乗ったエヅリを先頭に、太鼓やホラ貝で囃しながら浜まで行き、台座から笹の部分を外して海に流し、合掌。これが久和の精霊流しだ。
 エヅリを持つ人を「エヅリ持ち」といい、とても名誉な役だが、最近はなり手(青年)が少なく、年齢幅を広げて対応しているそうだ。
1980年頃のエヅリ  写真提供:堀江政武氏
平成になってから人口流出
 昭和30年代は、本戸が33軒あり、田や畑を耕していたという。また、漁業が盛んだった頃は、船が40艘もあったという。2022年現在、水田を耕しているのは5軒。漁船は5〜6艘しかない。
 立派な防波堤も最盛期の頃の計画で作られたもので、でき上がった頃には船が半減していたそうだ。
 統計をみると、1995年国勢調査では戸数はまだ67戸もあり、174人が住んでいた。2021年(令和3年)は、52戸、91人。一人世帯が約20戸だという。休耕地が増えるのも無理はないと言わざるを得ない。
四角い小さな船だまりも久和の風景になった
 河口近くの久和川の左岸に設けられた小さな船だまりも、久和ならではの風景のひとつだ。
 昭和30年頃(1955年頃)に、小型船用の避難用係留地として造られたが、現在は河口に橋もでき、年を重ねるに従い土砂が堆積し、潮の干満によって船が出入りできない時間帯も増えた。
 漁船用の渓流地が河口の外に完成したので、この船だまりもお役御免となりつつあるようだが、石垣も美しく、このままの状態で残してほしい景色だ。
1955年頃に河口近くにつくられた、小型船用船だまり
【地名の由来】 本文参照。
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