江戸時代中頃まで、対馬藩は釜山に置かれた倭館に窯を設け、茶器を製作し、大名たちからの注文に応えた。その流れをくみ 断続的ではあるが対馬でも窯が経営されたが、その最初の窯が久田に設けられた。(あくまでも記録に残っている範囲で・・・)
久田窯が記録として歴史に登場するのは、実は朝鮮焼偽物事件だった。明暦(1655年~1658年)以前に久田ではじまり、「朝鮮焼物」と見まごうほどの焼物を作っていた久田窯だったが、1657年(明暦3年)に朝鮮焼物の偽物が事件となり、それがきっかけで翌年に閉窯。対馬藩は「御用品」である「朝鮮焼」というブランドを守るために、まず久田焼には茶碗の底に「久田」と刻印するように命じたが、その後一時営業停止となり、それからの記録はない。
1681年(延宝9年)に再び開窯されたたが、ほぼ同じ場所(増田)で作陶が行われていたと考えられている。どのような作風であったか、いつまで続いたかは記録にないが、茶道具に関しては「朝鮮焼」に似たものを作ることは禁止されていた。