対馬全カタログ「村落」
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2023年1月28日
美津島町
久須保
【くすぼ】
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舟ゴロウに強く、水源があり
八十八カ所巡りもある。
こんな村、なかなかない
遺跡もあり、昔の交易ルートの可能性も
 万関瀬戸開通以前は、久須保は三浦湾南側の最奥部であり、地峡を挟んで浅茅湾万関浦まで500mほど。かつては地峡を越える交易ルートの一つだったかも知れない。
 久須保浦の岬にある石棺から副葬品と思われる壺の一部が出土。「かがり松鼻遺跡」と名付けられ、墳墓は弥生後期のものと推定された。東隣りの緒方同様、弥生時代以前からの村であろうと考えられている。
 1471年の朝鮮の書『海東諸国紀』には戸数は緒方と同じく20余戸と記されており、また乙宮神社があるのも同じで、ここでも製塩が行われていたことを物語っている。
久須保周辺地形図    出典:国土地理院地形図(村名拡大、遺跡追加等)
乙宮神社:6月20日の祭日は、前日の夜神楽につづいて神楽舞が行われ、犬吠や大船越などの近郊に住む親類や知り合いも集まったそうだ
公役銀の代わりに日々の魚を納める「日魚菜村」
 久須保は、隣村の緒方をはじめ、黒瀬・竹敷・濃部・大船越と同じく「浅茅日魚菜(ひざかな)村」のひとつだった。毎日、当番の村が朝に獲れた魚を城の台所に届けなければならなかった。さらに馬の餌用の馬草も納め、その代わりに公役銀(くやくぎん)を免除されるという制度だった。
 1662年(寛文2年)に、それまで行われていた過重な夫役による農業生産性の低下を避けるため、公役に代わって公役銀を納めさせるという現金納入が導入された。
 公役銀は、公役人一人当たり銀30匁余り。必要な公役があればそれを賃金換算し、差し引かれた金額を納入したが、現金納入にすることで藩側が日々の食材の調達に困ったところから、「日魚菜村」という制度がはじまったとされている。
最初は侍のいない村だったが
 1700年頃、元禄時代は給人や足軽という侍のいない村だった。乙宮神社があることから、中世の頃は製塩業を営んでいたと推察できるが、島主から知行として宛がわれる「竈」ではなく、私竈だったようだ。塩の売り先はほとんどが朝鮮半島だったはずだ。
 江戸時代になると、藩が朝鮮との交易を禁じたので、製塩業は立ち行かなくなり、対馬の塩竈は多くが姿を消した。
 1700年(元禄13年)の久須保村のデータと1861年(文久元年)のものを比べてみると、約160年間で籾麦の生産量が92石→130石と約1.4倍に増加。これは浦の干拓が進み耕作地が増えたからだろう。人口は11歳以上で比べると40人増えており、作物の生産量に見事に比例している。
 家数だけが36→27と減少しているが、これは隠居家が禁止され、同じ屋根の下に住む人数が増えたからだろうか。
 天保期の『八郷給人分限帳』には小田與兵衞1名の記載があり、享保7年(1722年)に給人になったと付記されている。

1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』 
物成約23石、戸数36、人口102、神社1、寺1、
給人0、公役人18、肝煎1、猟師4、牛6、馬1、船8

1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦130石、家27、人口176、男66、女76、
10歳以下34、牛20、馬22、孝行芋1,230俵
舟ごろうで名を馳せた村、あるいは情熱の舟ごろう
 「この部落のかつての栄光は「舟ぐろう」に強く、今もなお優勝旗が何本も保存されていることだろう」と、『美津島町誌』に書かれるほど、久須保は強かったらしい。
 舟ごろうの思い出を老翁に語ってもらった。(久須保では「ふなぐろう」ではなく「ふなごろう」という)
 「とにかく舟ごろうで勝つために、久須保の男たちは研究熱心でした。特に櫂は重要で、軽くて、弾き返す力が強いというのが理想でした。形が完成したら、イロリのある部屋の天井近くに飾り、煙で燻します。これで、水に強く、虫も食わなくなり。見た目も黒く引き締まり、いかにも強い櫂という感じになります。
 黒い櫂で「羽黒」など、名前のある櫓もありました。櫓はそれぞれの家が所有し、売り買いも行われ、鴨居瀬から買いに来たので売ったという話もありました。
 櫂の次は舟。舟の揺れ(ローリング)はエネルギーロスにつながるので、舟ごろう用の板の合わせ方をして、ローリングしにくく、直進性を高める作り方をしました。
 その上で、どう漕げば、どう動けばローリングしないか、いろいろ試し、自分たちの勝つための方法を見つけます。
 漕ぎ手の配置も重要で、前の方から、切っ先、脇櫓、艫櫓(ともろ)と呼び、切っ先には小さくて馬力があり声の立つ人を、艫櫓には体重のある人を置きました。
 それと櫓が外れるのを防ぐ「取っ付き」と呼ばれる人も重要で、久須保では、漕ぎ手や取っ付きの配置、それぞれの持ち場に最適な櫓の長さなど、いろいろ研究し、たいがい勝ちました。」
舟ぐろう用の舟:この舟は13丁立てだが、20数丁立てまであったそうだ(撮影地は上県町佐須奈)
知事の前で、久須保同士が舟ごろう対決
 舟ごろうは昭和の初め頃が最盛期で、第2次大戦後もかなり盛んだったようだ。木坂の祭りの日には島内から集まった舟で舟ごろうをすることがよくあったという。
 1956年(昭和31年)、万関の新橋落成に、当時の長崎県知事が視察に来た時には、久須保ご指名で舟ごろうが行われた。久須保の男たちが2チームに分かれ競うわけだが、どちらも勝ちたいので、その時は秘密保持のため、村が二つに分かれるほどの熱の入れようだったらしい。
 だが、これを最後に、久須保の舟ごろうは行われなくなったという。この分断もその一因だろうか。
この頃、舟ごろうは男たちの娯楽の中心だった(1950年) 写真提供:宮本常一記念館
湧き水に恵まれ、いまだ上水道は不要
 以前この村は久須保、槍川(やりこう)、引地(ひきぢ)の3カ所に分かれていたが、干拓が進んでつながり、現在の村容になった。また対岸にも家が増え、向え(むかえ)という新たなエリアも生まれた。
 対馬では珍しく水源に恵まれた村で、飲料水に困ったことはなく、かつては槍川(やりこう)の谷の奥の方に弘法水という湧き水があった。美味しく、久須保の人たちは誰もがその水を飲んで育った。 
 昭和の中頃に、各戸に水道を引くために新たな水源を開発したところ、その頃から弘法水は涸れたそうだ。
 今では蛇口をひねれば水がでるが、久須保の水道の水は、浄化した上水道の水ではない。いまだに美味しい自然の水だ。
今は涸れてしまった弘法水跡か
久須保八十八カ所巡り
 現在の水源の山でもあり、かつて弘法水が湧いていた山を、金山(かなやま)というらしい。かつて鉄鉱石が採れたらしく、今でも弘法水の湧いていた近くに坑道らしき穴がある。
 この金山には野仏が点在しており、それを巡られるように道がある。「久須保八十八カ所」と言えばいいだろうか、「四国八十八カ所」の超コンパクト版だが、山を歩くわけだから健康にもいい。強風で仏像が倒れていることもあるので、それを正しい位置にお戻しするという行為も、願いにつながるようでいい。
 そのスタート地点に建っているのが弘法大師堂で、かつては月の21日に女だけが集まり飲食をするというイベントもあったらしい。
 また、3月21日が祭日で、朝早くから村総出で八十八カ所の道さらえを行い、その後、弘法大師堂で持ち寄りの酒肴で宴を楽しんだという。
八十八カ所巡りの仏像
弘法大師堂
今もお参りされているのが伝わってくる堂内
【地名の由来】諸説あり。久は古い、須は洲、保は浦。あるいは「久須」は神社の手前の原に住むの意。あるいは、聚り集まるの意。また、かつて地峡であった万関越の浦であるところから「こす浦」が変化したという説もある。 地元では、楠の木を切って上納金に充てたところから、楠が村を保ったということで、「久須保」となったという由来話がある。
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