対馬全カタログ「村落」
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2021年6月27日更新
厳原町
久根田舎
【くねいなか】
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安徳天皇伝説の村は
石屋根と
アイデアの村でもある
厳原から直線距離10km、かつては車で1時間
 対馬の最高峰である矢立山(648.5m)の西側にあり、東側にある厳原市街からの交通の便は悪く、ようやく1963年(昭和38年)にバスが開通した。それでも、厳原からは直線距離で10キロ足らずだが、かつては車で1時間近くかかったという。途中の山道は徐々に舗装されていったものの、カーブが多いからだった。しかし、 拡幅工事と2008年(平成20年)の内山坂トンネル完成によって、所要時間は大きく短縮された。
「大調」か「くね」か、旧名論争
 久根田舎は久根川中流、海岸線から1.5kmほど内陸に発展したが、これも川に沿って広がる耕作地ゆえだろうか。河口付近にある村、久根浜と対をなし、こちらが親村とされている。
 1800年代初めの享和の頃(1801~03年)、久根浜で箱式石棺が発掘され、たくさんの玉が出たという記録がある。弥生時代からの村ということになる。
 江戸時代に編さんされた『対馬紀事』には、久根の古名を「大調(おおつき)」とし、それを受けて小学校の名称も「大調」としていたが、対馬郷土史の第一人者永留久恵氏から、917年(延喜17年)に碁子浜(くね浜)に鯨が寄りあがったという記録をもとに、古代から「久根」であったことが提起された。
耕作放棄地が皆無の久根田舎
「参考地」で一件落着した御陵墓騒動
 久根田舎でもっとも有名なのが安徳天皇御陵墓参考地ではないだろうか。源平の戦で壇ノ浦に消えたとされる安徳天皇は各地にさまざまな伝説を残した。鹿児島の硫黄島には安徳帝の末裔と言われる「天皇さん」が代々島民から敬愛されてきた。
 久根田舎には御所と呼ばれる場所がある。安徳天皇のものと言われる墓もある。1964年に刊行された『新対馬島誌』では安徳天皇伝説に、実に10ページもの紙数が費やされている。そこには明治初期に展開された陵墓確認運動が詳しく記載されており、それが対馬の歴史においていかにエポックメイキングな出来事であったかを物語っている。結局は、運動の当事者は不本意だったようだが、あくまでも「参考地」として一件落着することになる。
安徳天皇御陵墓参考地
暮らしに根ざした石屋根の小屋
 石屋根といえば椎根地区だけが有名だが、かつて対馬では多くの村に石屋根の小屋があった。瓦の普及によって石を使うことは少なくなったが、ここ久根田舎は石屋根が多く残されている。観光名所としては椎根が有名で、石屋根も美しく保存されているような印象だが、島の生活感が感じられるのは久根田舎だと思う。観光名所としてではなく当たり前のように道路わきにあり、小屋前の庭では子供たちが遊んだりしている。
 椎根に比べると厳原からは少し時間がかかり、名所として整備はされていないが、生活とともにある久根田舎の石屋根も一見の価値がある。
使い込まれている石屋根小屋
全国に紹介された「久根田舎暦」
 また久根田舎では、自分たちの地区をもっと元気にしたいという思いから、2013年(平成25年)に、老朽化していた地区の案内板を、子どもたちが描いた絵をレイアウトした地元感と親しみあふれる案内板に改修。
 さらに2016年(平成28年)には、久根田舎オリジナルカレンダー「久根田舎暦」を作成。銀山上神社などの村の名所と神話をモチーフにしたビジュアルを展開し、地区行事の日程などを盛り込んだ。
 その反響は予想外に大きく、全国紙でも紹介され、「祭りに参加したい」などの声のほか、ほかの地区からの相談も相次ぎ、「久根田舎暦」は瞬く間になくなったそうだ。 
子供たちの絵を配置した案内板
今や記念となった2017年の久根田舎暦
地区の魅力アップは自分たちの手で
 そしてその翌年、2017年(平成29年)には、お盆の帰省時期に合わせて、「KUNEい~なか祭り」を初開催。特設ステージでは、育成会の出し物やカラオケ・漫才・腕相撲・丸太切りなどのイベントを行い、地元商店や消防団の協力による各種出店も祭りを盛り上げた。
 自分たちでアイディアを出し合い、さまざまなプロジェクトにチャレンジする。また、地域の安全や美化にも取り組み、そのような活動を通して住民同士がふれあい、好循環を生み、地域がさらに魅力を増してくる。久根田舎のこれからに注目したい。
久根田舎といえば、苔の美しい銀山上神社
【地名の由来】 由来不詳。
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