久根田舎は久根川中流、海岸線から1.5kmほど内陸に発展したが、これも川に沿って広がる耕作地ゆえだろうか。河口付近にある村、久根浜と対をなし、こちらが親村とされている。
1800年代初めの享和の頃(1801~03年)、久根浜で箱式石棺が発掘され、たくさんの玉が出たという記録がある。弥生時代からの村ということになる。
江戸時代に編さんされた『対馬紀事』には、久根の古名を「大調(おおつき)」とし、それを受けて小学校の名称も「大調」としていたが、対馬郷土史の第一人者永留久恵氏から、917年(延喜17年)に碁子浜(くね浜)に鯨が寄りあがったという記録をもとに、古代から「久根」であったことが提起された。