2024年5月1日更新
厳原町
久根浜
【くねはま】
斎藤四郎治による開き等で
収穫量も倍増。その頃
久根浜村として独立か!?
親村の久根田舎は弥生からの村
享和年間(1801~04年)に、久根浜で石棺4基が発掘され、玉が大量に出土した。その発掘と久根田舎の銀山上神社に納められている弥生後期の銅矛、さらに縄文時代から弥生にかけての遺物包含地(在家遺跡)が存在すること等を合わせて考察すると、久根(久根田舎)に弥生時代から人の営みがあったことがわかる。
久根浜がいつ村の体をなすようになったかは明確ではないが、大興寺に永和5年(1379年)写経の大蔵経に「対馬州久根村瑞龍山大興禅寺」と書かれており、その頃は1.5kmほど離れているが久根村の一部という認識だったことがわかる。
後述するが、鎌倉時代初期には百姓16人(16軒)が住んでいたと考えられており、そこに北九州から久根にやってきた武士(斎藤家)の被官たちが住み、さらに製塩を業とするグループが加わったと考えられる。
百姓+被官(侍の家来)+製塩従事者
1471年(文明3年)に、当時の島主宗貞国からの宛行状に「くねのかま」を安堵する旨が記されていることから、ここで製塩が行われていたことがわかる。
いつ頃からここで製塩が行われていたかは記録にないが、峰町津柳の私竃で1300年代後半に始まっていたと考えられ、「くねのかま」も1300年代にはスタートしたと考えてよいのではなかろうか。(その頃、対馬では爆発的に製塩が広がった。早くは1319年(元応元年)に塩竃からの年貢徴収を指示する、当時の守護職 少弐貞経発行の文書もある。)
浜には製塩関係の施設が建ち、その傍には製塩に関わる人たちの住居が建っていたはずで、先住の百姓や被官たちもいたので、30~40戸規模の集落だったと予想される。
1436年(永享8年)の島主宗貞盛の書状に「対馬さすの郡くねのはま、たくみ孫四郎」という表記があり、その頃は久根の枝村的な集落であったことがわかる。さらに1460年(長禄4年)に島主宗成職の書状に、孫四郎の子か孫にあたると思われるたくみ孫次郎に宛てたものがあり、親の代からの御内(みうち)ゆえと、山の諸権利を認めている。つまり、たくみ氏は宗氏に連なる侍であり、その頃ここで製塩が行われており、山の諸権利の中にはその頃最も重要な山の権利であった「塩木(塩を煮るための薪となる木)」の権利も含まれたのでないかと考えられる。
久根浜周辺地図 出典:国土地理院地形図(地名拡大、施設名追加等)、長崎県遺跡地図
江戸時代に大きく生産量を増大
久根田舎の初村家文書の中で最も古い1288年(正応3年)の文書に、オヤケの畠を100文で売ったという売渡状がある。オヤケの畠とは、久根浜から東へ奥深く入り込んだ谷間の畑のことで、久根川河川敷の埋立て以前は、オヤケ一帯が久根浜の主力生産地だったと言われている。
当「村落」カテゴリーでは、江戸時代の各村の暮らしの変化をたどる数値として、1700年(元禄13年)の『元禄郷村帳』と、1861年(文久元年)の『八郷村々惣出来高等調帳』の比較を行っているが、元禄時代、久根浜はまだ久根村の一部なので、1861年と1772年(明和9年)の統計「公儀役人廻村ニ付村々ニ而答書」のデータ、さらに村勢から推測し、元禄期の久根浜と久根田舎の世帯数と物成を割り出してみた。
1700年の久根浜:久根田舎、世帯数は33?戸:52?戸、物成は50?石:92?石。あくまでも推測だが、この数字から久根浜の160年間の生産量の伸びを計算すると、2.125倍。これは仁位の2.120倍をわずかに上回る対馬一の伸び率となり、久根浜の農業改革がいかに成功したかがわかる。
なお、1772年(明和9年)の統計「公儀役人廻村ニ付村々ニ而答書」において、「久根浜」として、一人前の村して扱われており、1700年代中頃には村として独立していたと推察できる。
1700年(元禄13年)『元禄郷村帳』
久根村(田舎、浜合体)
物成約142石、戸数85、人口364、神社1、寺3、給人6、公役人39、肝煎2、猟師11、牛24、馬64、船7
1861年(文久元年)『八郷村々惣出来高等調帳』
籾麦425石、家40、人口203、男84、女90、10歳以下26、牛39、馬42、孝行芋351俵
※1772年(明和9年)の統計「公儀役人廻村ニ付村々ニ而答書」のデータより
久根(久根田舎)物成56石 戸数48 人口281
久根浜 物成30石 戸数31 人口183
久根浜の偉人、斎藤四郎治による開き
2倍という驚異的な生産量増大の達成には、やはり優れた人材の登場が不可欠だった。
斎藤四郎治は、1686年(貞享3年)に久根村(久根田舎)の給人の家に生まれ、1707年(宝永4年)に江戸に出て農耕治水を学び、1716年(享保元年)にはさっそく開地によって加増を実現した。
1723年(享保8年)に地方普請奉行に任命され、八郷の河川や水路の普請を任され、対馬の新田開発や治水等に貢献。この任命を機に府中(厳原)の今屋敷に移ったそうだ。
久根浜村においては、久根川下流の左岸に広がるガタバル(片原)を改修し、5町歩の水田(乾田)をつくった。「斎藤原(さいとうばる)」とも呼ばれている。その灌水システムの一部として導入した、満潮時の海水の浸入を防ぐ「ガタバルの潮止め」は現在は鉄とコンクリートになってしまったが、今も運用されており、久根浜ならではの景観を提供している。
また、ガタバルの上流の新開(シンビラキ)は中世の頃に百姓株16人が共同で開いたという伝承があり、四郎治以前に開拓されていたが、それを両毛作ができるように改修し、さらに山林1町歩を畑にした。
ガタバルの潮止め
人家が密集しているところが百姓16人が居を構えた「日向」あるいは「在家」。久根川の向こうに「ガタバル」の水田が広がっている。右側の山の陰になっているところが「日陰」
斎藤四郎治は失敗しなかった!
斎藤四郎治は地方普請奉行として、地元の久根川だけでなく佐須川、矢立川、瀬川流域で湿田を乾田に改修し、米麦の両毛作(二毛作)を推進。治水では佐護川・仁田ノ内川に堀切を作って氾濫を防止するなど、土木の力で対馬を変えていった。
また、藩に申し出て、飢饉対策として有効な樫の実の増産を目的に、1712年(正徳2年)から1722年(享保7年)まで、佐須郷7村で樫木仕立て(樫の木の育成)を実施、完遂した。
さらに農学にも通じ、イナゴ害解消のためにイナゴの駆除方法を指導するなど、陶山訥庵の農政を引き継ぎ、1741年(寛保元年)に郡奉行に就任。対馬にさまざまな貢献をし、1760年(宝暦11年)、76歳で亡くなった。在郷の給人が郡奉行にまで昇進することは、対馬藩では異例中の異例。彼の優秀さがうかがい知れる。
斎藤四郎治は失敗しなかった、と言われている。さまざまなプロジェクトで成功を収めることができたのは、四郎治だけでなく彼を頂点とした組織、いわば「斎藤組」が優秀だったからと考えるべきで、そこには独特の主従関係があったようだ。
「斎藤仲間」の結束力
四郎治の先祖は、鎌倉時代に太宰府の長であった小弐氏の命令で宗家に従って対馬に入り、久根村を拠点として、その家来たちの多くを久根浜に住まわせたそうだ。既に居住条件のよい所には百姓が住んでいたので、久根川の南側、午後になれば山の陰になる「日陰」と呼ばれる場所に住まざるを得なかった。
四郎治は20人の被官を使っていたと言われているが、その被官が鎌倉時代から仕えている家来たちで、「斎藤仲間」と呼ばれた。彼らが四郎治の手足となって土木の現場で主力として働いたのではないだろうか。強い主従関係があったからこそ献身的に働き、親方様である四郎治を成功者へと押し上げる一助なったと考えてもよさそうだ。
新たに開いた新田は所有を認められており、その広大な私有農耕地を耕すのが、斎藤家被官たちのメインの仕事だった。毎年秋になると収獲の一部を府中の斎藤家に上納する。それが四郎治の時代から1950年(昭和25年)頃まで続いた「斎藤仲間」の務めだった。
府内士となった斎藤四郎治家、その後
昭和になり農業政策として自作農を増やそうという社会気運の中、斎藤家では1935年(昭和10年)に耕作地の大部分を「斎藤仲間」で分け、1948年(昭和23年)には農地改革ですべての田畑を失った。
府中在住の給人を「府内士」と呼ぶが、その府内士の分限帳によると、江戸時代後期の斎藤家の収入は241石で、府内士で唯一「田舎知行」という説明が加えられている。禄と上納分を合わせた石高が241石ということだろう。
余談だが、四郎治の先祖にあたる斎藤資定は、元寇の戦いで宗資国とともに佐須で討ち死にしており、佐須浦の戦いを史実としてを確認できる唯一の史料が、そのことを記した斎藤家に遺された文書だ。(こちらの斎藤家では長男に「定」の字を付けることになっており、四郎治も本名は「定輝」という)
斎藤四郎治の墓:左側に置かれた顕彰碑で「農業政策に従事し久根浜の荒地6町(60,000平米)余りを水田として大規模開墾事業を計画。これに自ら指揮し久根浜の農業の為に心血を注いで開拓をし、その事業は子、孫にまで至った。」と功績を讃えている。
大興寺の高麗仏
「大興寺沿革碑」によると、創建年代は不明だが前述の大蔵経写経の送り書きに記された1379年(永和5年)以前に建てられたことは明白で、650年前には建立されていたと考えられる。但し、当時は「日陰」に建てられており、それを現在の地、山の上に建て替えたのが斎藤四郎治と言われている。
本尊である釈迦如来坐像をはじめ4座が長崎県の指定文化財に登録され、すべて高麗仏と言われているが、本当のところはわからないという。
旧暦の4月8日、釈迦の誕生日を祝う「花まつり」に頭から甘茶をあびる誕生仏の高麗仏がある。寺の案内板に「銅造誕生仏」としてこのような説明が添えられている。「対馬に残る朝鮮系誕生仏のうち最大で、高麗時代初期(13世紀)ごろのものを考えられ、美術史上貴重な仏像である。」胴より頭が太く、日本の仏像にはないシルエットだが、仏像としての奥の深さ、崇高さを感じさせる不思議な力がある。
大興寺の誕生仏
長く続いた盆踊りも2010年頃に途絶えて
久根浜の盆踊りは、1999年(平成11年)に厳原町教育委員会から出版された『対馬 厳原の盆踊』の中では「現行地区」6地区(阿連・久根浜・内院・久和・内山・曲)の一つとして紹介されたが、その10年後くらいには行われなくなってしまったそうだ。
久根浜の盆踊りは6人2列の12人で踊られたが、踊組は12人に師匠1名とツエ1名を加えた14人で組織され、16歳になると参加し、新たに加入した人数だけ年長者が押し出されるシステムだ。
踊組への参加は、村の通過儀礼であり、青年教育、社会教育的な要素が強く、挨拶、序列を守ることなど、礼儀作法にも厳しかったそうだ。その構成や役割、順番等も複雑で、説明するに字数が足らないので、『対馬 厳原の盆踊』を参照してほしい。
久根浜の盆踊りで特徴的なのは、「ヨセ太鼓」だ。8月に入ると毎夜、踊の練習場となっている踊宿からヨセ太鼓が鳴り、それを合図に踊り子たち踊宿に集合し12時頃まで練習する。そして本番初日の8月14日は午後2時になると、2・3・2調のヨセ太鼓が5分おきに3回打たれ、皆が衣装を着て踊宿に集まり本番の準備にかかった。
真夏の昼間に村に鳴り響く太鼓の音。踊る側の緊張と、観る側の楽しみを呼び起こす、独特の空気感を醸成したに違いない。
なお、昭和32年頃までは盆踊りの余興に芝居があり、師匠を雇って1ヵ月ほど練習したという。また昭和40年頃までは、唯一の士族であった斎藤家(斎藤四郎治とは別系統)でも踊られたそうだ。
海沿いの「灘道」を歩いて、小茂田まで
佐須村時代(1908年~1956年)、行政の中枢は小茂田に置かれ、学校、商店、青年会の行事もすべて小茂田で行われていた。
久根浜から小茂田へは直線距離で約7.2km。第2次大戦後は渡海船が運行したが、ほとんどの場合は徒歩で海沿いの灘道を片道3~4時間も歩き、用事を済ませたそうだ。
天候の悪いときは遠見ノ壇山付近の海岸が最も危ないらしく、山腹の細い道を行くそうだが、そこは断崖絶壁の道。余程のことがない限り使わなかったと言う。
昔は日常の用事を済ますのも命がけの時があった。上槻付近では郵便局員が転落して亡くなったこともあったそうだ。
灘道 出典:国土地理院地形図(地図回転、地名拡大等)
【地名の由来】 室町時代に既に「くねのはま」と呼ばれていたように、久根の海岸近く(浜)に生まれた集落として、久根の枝村として長く扱われてきた。江戸時代に斎藤四郎治などの活躍もあり、存在感が大きくなり、村として独立。「くねのはま」がそのまま「久根浜」となった。
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